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My life~生い立ち~親の離婚#1

stand.fmでラジオ配信をしていますが、自分の人生論を語りました。これは本当に実際私が経験したリアルな話しです。
ノンフィクションです。
今回は更に詳しくお話がしたくnote記事にしました。
興味がおありでしたら是非全部読んで頂けたら幸いです。

私が生まれたのは1985年昭和60年7月に私は生まれました👶
現在38歳であり、年子の兄が1人、3つ下に妹がいて3人兄妹の真ん中で長女として茨城県で生まれ育ちました。🌱🍃🌿
とても明るくて活発な女の子で子供の頃は常に外で遊んでばかり、怪我してばかりの陽気でお転婆娘でした☺️
鎖骨にヒビが入ったり、足の靭帯がズレる程の怪我をしたり、自転車ごと川に落ちるなど小さい時からやんちゃな女の子でした(笑)
近所には同じ年くらいの女の子ばかりいて、いつも4~5人で仲良く遊んでました。
後々、皆、親が離婚してしまい離れ離れになってしまいました。その人達も今、何処かで自分の人生を歩んでる事でしょう。

私の家では度々両親が喧嘩ばかりしていて嫌な気持ちになりながら過ごしてる時もありました。今で言うDVってやつですね。
父親が母親の事を突き飛ばしたり、叩いたり怒鳴り散らしたりとしてる光景を幼い頃から目の当たりにして来ました。
当時私はまだ小学校低学年、でも薄々気づいてはいましたが、母親が悪いんです。
母親が浮気をしたり、借金したりと父親にバレてたんですね。だから父親が怒るのも無理はないとは思いましたが、流石に子供達の前で喧嘩ばかりして欲しくはなかったですね…
私は今38歳ですが今でもその時の事は鮮明に覚えています。父と母の喧嘩は頻繁に続いて、度々母親は家を出ては帰って来ての繰り返しでした。私の実家の裏には父親の両親、父親の兄夫婦、家族が住んで居ます。
私から見たら、おじいちゃんとおばあちゃん、伯父、伯母と伯父、伯母の子供達が住んでました。なので私の両親が喧嘩したり何か問題が起こる度に、当時はおじいちゃん、おばあちゃん、伯父、伯母が止めに来たり仲介に入ったりとしてましたね。みんなうちの問題は知ってました。
そんなある日の朝、小学校に登校する時間の数分前に、伯母がうちに来ました。
母親と話してるのが聞こえたんです。

伯母『お願いだから、何処にも行かないで、ずっとここに居てよ。考え直して。お金なに困ってるなら貸してあげるから。』
って言って、母に封筒を渡したんです。

母『姐さん、ありがとう。大丈夫だから。
心配かけて申し訳ない。子供達学校行かせたら私も仕事行ってくるから。』

って、記憶はあんまりないんですがそのような会話をしてたのを聞きました。

私は察しました。もしかしたらお母さんがまた出て行ってしまうんじゃないかと…
不安になりました。

行って来ます(。・ω・)ノ゙と言って玄関先で母に手を振り母もニコニコしながら手振ってたのを覚えてます。それが母との最後でした。
その日は1日学校に居ても、なんか母の事ばかり考えてて授業中も不安でしたね。
母が家に居ると信じて、母が待っててくれると信じて夕方学校から家に帰りました。
案の定母の姿はありませんでしたが、おじいちゃんとおばあちゃんが家に居ました。
きっと母が出て行ってしまったのは分かっていたんでしょうね。
私達が帰って来るから家で待っててくれたんです。
その後、兄も学校から帰って来ました。
妹は幼稚園に通ってたんですが、いつもは母がお迎えに行ってるんでけど、おじいちゃんか、おばあちゃんのどっちかが妹の事を迎えに行ったようで妹も家には居ました。
段々日が暮れ始め7時くらいまで母の帰りを待ってましたが、帰って来ず夕方の時間にもなり、私達はおじいちゃんと、おばあちゃんに連れられ、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行きました。
伯父と伯母もいて、ご飯を作っててくれて皆でご飯を食べてたら、父が来ました。
恐らく伯父が父に電話したんでしょうね。
その頃には既に携帯電話は普及し始め、かなりゴツゴツしてて重たくてトランシーバーのような携帯がありましたから、父も持っていたので伯父からの電話で急いで父も来ました。父は伯母達に、ちょっと子供ら頼むと言って母を探しに行ったようでした。
母は携帯電話は持ってないので父は母が行きそうな場所や母の友達の家など探してたみたいです。
この続きは、また後で書き示します。
ここまで読んで戴きありがとうございました。




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