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ミステリー初心者をスッキリさせてくれない、湊かなえ

 湊かなえを読んでみようと思ったのは、NHKの「あさイチ」という番組に出演されているのを観たからです。売れっ子なんだそうです。知りませんでした。しかもこれから一年間の休筆を宣言されたばかりでした。「私もう空っぽなんです」と。そんなに書きまくってたんですね。知りませんでした。

 いつも図書館代わりに利用している母(80歳)の書棚には湊かなえはありませんでした。しかし本好きの友人はいるもので、「湊かなえ貸して」とお願いしたらやってきたのがこの二冊でした(買えよ)。

『豆の上で眠る』?

 この謎タイトルはアンデルセン童話からの引用ですが、要は「踏み絵」のようなもの言えばいいでしょうか(違うか)。ある王子様が本物のお姫様を探すために用いたテストです。えんどう豆の上に幾重にも重ねた布団の上に候補の姫を寝させて、背中の違和感から豆の存在を言い当てた者が本物のお姫様であると。やっぱり謎です。

 これが物語においてどういう意味を持つのかも最初はさっぱりわかりません。しかし次第に「ははーん」となります。語り手である結衣子ゆいこは大学生。二つ年上の姉である万佑子まゆこに幼い頃読み聞かせてもらった童話の一つが「えんどうまめの上にねたおひめさま」でした。幼い二人は、本当に何枚もの布団の下に置かれた一粒の豆を背中で感じ取れるのか実験しますが、それが二人の重要な共通体験として意味を持つことになるのです。

 結衣子は子供の頃、自分はこの家の子ではないのではないかという疑いを持っていました。姉の万祐子の方が母に可愛がられていると感じていたからです。しかし一方、大学生になった今でも姉に対するある疑念を持ち続けています。それは、「いったいこの姉は本物の万祐子ちゃんだろうか?」という疑念です。

 なぜか。童話をよく読んでくれた万祐子ちゃんは小学3年のある日失踪します。二年後に突如発見され、家に戻ってきたお姉ちゃんに結衣子は違和感を感じます。この万祐子ちゃんはニセモノじゃないのか?それを確かめようと会話の中で様々な「踏み絵」を散りばめ「万祐子とされる」姉が本物かどうかテストするのです。

 人間は「重い事実」をどうやって受け入れて、或いは隠して、暮らしていくのか、本作は「女児の失踪」という事件を通して、ではなく!「新生児の取り違え」という事故、でもなく、「新生児のすり替え」という事件を結衣子とその家族にぶつけることで描いたのだと思いました。

 初めて読んだ湊さんの文章は、ぐいぐい引き込まれるという感じではありませんでした。本作においてはなんてことない日常を、結衣子という女の子目線でつらつらと描写されるところから少しづつ話が展開されるのですが、ある時突然ストンと急展開が訪れドキっとします。

 しかし話が進み前の出来事が回収されそうになると、どっこいまた謎が深まるというミステリーで、どんどんややこしくなり、いわゆる地頭の悪い私はついていくのに必死でした。ミステリーのからくりは本当によく考えられていて、私のようなミステリー初心者の安易な予想はあっけなく覆されてしまいます。それでも最後には雲が晴れスッキリするのかと期待していたらこれまたどっこい、最後は「本当の家族とは?」というなんだか重たい問いが心の底に澱みをつくって終わります。家族とは…血の繋がりか、それとも一緒に過ごした時間なのか…。

『花の鎖』?

 これもタイトルだけではどんな話か想像もつきません。しかし読んでいくとやはりすぐに「ははーん」となります。特にこれといって名物のない田舎町が舞台ですが、きんつばが美味しい「梅花堂」と、気の利いた花束をアレンジしてくれる「山本生花店」が重要なハブになっています。

コマクサ、リンドウ、コスモス

 その田舎町に生きた親・子・孫の数奇な人生が少しずつ重なり繋がっていく、因果応報とでも言うのでしょうか(違うか)、その折々に「花」が登場するわけです。

 英会話講師として働いている梨花は祖母と二人暮らしです。両親を事故で亡くしているのですが、母の生前から現在も、「K」と名乗る人物が毎年両手で抱えきれないほどの豪華な花束を送ってきます。この「K」とはいったい何者なのか?それはさておき、祖母は癌を患い入院中で、ある時梨花に自分の通帳を渡して涙ながらに頼みます。「これであるものを競り落としてほしい」と。

 紗月は「花の水彩画」の講師です。食堂で働きながら一人で紗月を育てあげた母は、紗月が生まれる前に亡くなった父のことを絶対に話しません。ある日短大時代の元親友、希美子が訪ねてきます。「元」と書いたのは、現在は希美子の夫である浩一と紗月は学生時代に付き合い始め、結婚直前で別れているのです。絶対に会いたくない、顔も見たくないというほどの遺恨のある元友人というものが私にはないのですが、いや忘れているだけでしょうか。その希美子が夫の浩一を助けてほしいとこれまた泣いて頼みます。なぜならそれは紗月でないと助けられない事柄だからです。

 美雪と和弥はなかなか子供を授からないものの、所謂おしどり夫婦です。ある時和弥は、今の自分の全てをかけて取り組みたい目標ができたと美雪に話します。しかしその目標が形になる直前に事故で亡くなります。皮肉にもその事故の数日後に美雪は妊娠していることを知らされます。しかも溺れかけたところを助けられ、寝かされていた病院のベッドで。

 全ての発端となるのが「美雪」のエピソードですが、私は美雪の描かれ方が一番好きでした。美雪は最初ちょっとイラッとするくらいおっとりで、夫和弥とののろけ話を、自覚なく、罪なく友人に話したりしています。子供ができないことを除いてはなんら不満のない日々を、やや戸惑いながらも感謝しつつ享受し、そっと大事に守っている、そんな女性です。しかし、和弥が死んだ事故の真相を知った時、彼女の中で何かが壊れ、葬儀に集まった親族を前にある人物を口汚く罵り、その記憶もないほどに乱れるのです。

 それまで、少しづつ好奇心をくすぐられるため退屈こそしないものの、それほど抑揚のない描写が続き感情が揺さぶられることがなかったのに、最後のこの美雪のエピソードで、元々緩い私の涙腺はあっけなく崩壊しました。そして前述の「豆の上で…」と違い、辛く悲しい出来事を経てなお救いのある終わり方でしたので、こちらを後に読んで良かったなと感じました。

 冒頭の写真の帯にあるように女性に人気なんですね、湊かなえ。どちらの作品も読んでいると、「女性の頭の中ってこんな風になってるんや」と思えてきます。私は所謂典型的な「男脳」で、しかも基本ぼーっとしていて勘の悪い人間です。ですから、女性は人の表情や言動、行動からこんなにも様々な事を読み取りながら自分の言動や行動を選択しているのかと感動しました(そこ?)。男のウソが女性に簡単に見抜かれるのはそういうことなんです。

 ポリティカル・コレクトネス (Political Correctness) がやたら言われる昨今では、「女らしさ」「男らしさ」という言葉もなかなか使いづらいです。しかしだからと言ってこの世から「女・男らしさ」が消えてなくなるわけではありません。「女・男らしさ」とはある種の「傾向」を言い表しているだけであって、それを人に強制したり期待したりすることがダメなのです。その上で敢えて言いますと、今回の二冊は、「男も楽しめる、女らしい作品」でした。こういう言い方もステレオタイプですかね?

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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