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時に美しく、時に不都合な「自然」というやつ

 例によって80歳の母の書棚から拝借してきたこの本は、いわゆるコロナ本ではありませんでした。私が(コロナ以前から)ずっと持ち続けていた「ある疑問」を整理してくれ、「解決せずにこれからも持ち続けてもいい」と言ってくれるような本でした。

ある疑問

 動物や植物は自然のルール(掟といってもよい)の中で本能にのみ従って生きていて一定の秩序が保たれています。一方人間は自然から切り離した自分達のテリトリーで、自然のルールではなく自分達が作ったルールの中で、どちらかというと理性で本能を抑えながら秩序を保ち、しかも環境を自分たちが快適なように作り変えて生きています。
 その原動力となっているのが人間特有の「好奇心」や「探究心」、或いは「功名心」だと思いますが、いったい何故そのような性質と能力が人間にだけ与えられたのか?というのが私の長年の疑問です。

 自然の掟とは

 もし人工物のない自然の中、身体一つで生きていくならば、そこは残酷な弱肉強食、適者生存の世界です。おそらくそこでは弱い者や未熟な者、不完全な者や或いは運のない者はあっという間に淘汰されてしまうでしょう。その中でより生存に適した遺伝子が選択されつつ、他の種とせめぎ合いながら一定の秩序が形作られ、その中で生命は生まれ、生き、そして死んでいきます。それを生態系と言ったりします。

本能の役割

 動物でも植物でも、一個の生命体の最大の使命とは言うまでもなく「子孫を残すこと」でしょう。そのためには食べなければいけませんし、眠らなくてはいけません。そして頑強な身体で競争に勝ち、生殖を果たした後は子供を守り育てなければいけません。個体をこれらの行動に突き動かすのが本能であり、遺伝子によってプログラムされているものだと私は理解しています。

 それを本書では「遺伝子の掟」と呼んでいます。もし本能にのみしたがって生きていれば人間も自然の一部として存在することになるはずです。

自然ピュシス論理ロゴス

 ところが「自然の掟」や「遺伝子の掟」を克服してしまったのが人間であると、「動的平衡」の著書で有名な福岡伸一博士は言います。その通りだと私も思います。
 人間だけは自然淘汰を拒否して、弱い者も、未熟な者も、不完全な者も、或いは運がなかった者も、みんな手を取り合い助け合って生きていこうということを選択したのです。(現実にはそうなっていないことも多々ありますが、それは後述します)。それを可能にしたのが「言葉」であり「論理」であり「科学」です。
 
 本書で福岡博士は「自然」或いは「自然現象」といった人間の手でコントロールが難しいものをギリシャ語で『ピュシス』と呼び、一方「論理」や「言葉」または「科学や技術」など人間がコントロールできるものを同じくギリシャ語で『ロゴス』と呼んでいます。ちょっとキザな博士です。
 ちなみにこの言葉で先程の私の長年の疑問をキザな感じで言い直すと「地球というピュシスの中で、なぜ人間だけがロゴスを持ち得たのか?」となります。

 人間はロゴスの力で地球を支配し隆盛を極めていますが、ピュシスは必ず「もれだす」と福岡博士は言います。それは簡単に言うと、人間がウイルスの伝播をロゴスの力で抑え込もうとしても、必ずどこからか漏れ出して結局は伝播は続くというようなことです。

 そして本書では「ピュシスとロゴス」というテーマで3人の研究者が語り合います。一人は先ほどの福岡博士、あとの二人は伊藤亜紗藤原辰史ですが、私はこの二人を全く知りませんでした。

伊藤亜紗という人 

 この方は美学者ということですが、何を研究してらっしゃるのか見当がつきません。しかしとにかく身体障害者との交流を通して、健常者が想像したこともないような「感覚」を紹介してくれています。
 
 ところで人間にとって一番身近な自然とは自分の身体です。一応「健常」とされる人でも時にコントロールが難しい自分の身体ですが、障害者となるとさらに「ままならない」身体と毎日向き合い日々生活しています。 
 伊藤氏は自身も「吃音」という言葉の「ままならなさ」を抱えながら、障害者との交流を通して、彼らが健常者の想像を超えた境地にいる(人もいる)のだという発見をされてるようです。
 そのようなことから今世の中で常識、当たり前とされていることに大きな疑問符を投げかけてくれるのが伊藤さんという人です。
 
 最も新鮮だったことは、「障害者」という概念は、産業革命以降の「人間の画一化」と「時間の均一化」が起こった時に生まれたものだ、ということです。
 どういうことかというと、例えば工場で人がある作業を1時間やればこれだけの成果があるだろう、という期待をすることが人間の画一化でありまた時間の均一化です。どんなに頑張ってもその期待値から外れてしまう人は「イレギュラー」とされるわけです。
 それからよく「1日24時間ということだけは誰にとっても平等だ」などと言いますが、それだって疑わしいというわけです。本当はAさんにとっての1時間とBさんにとっての1時間は違うんじゃないかと。そんなの屁理屈だ。時計で計れば1時間は1時間じゃないか!とあなたは言うでしょうか?

藤原辰史という人

 この人は歴史学者だそうです。とりわけ農業の現代史が専門であると。そして飢えの歴史を見直すと社会の姿がよく見えてくるのだそうです。またナチスの食糧政策といった歴史の教科書であまり出てこないような観点から驚きを与えてくれました。

 私はこの藤原氏の論考で「構造的暴力」という言葉を初めて知りました。その特徴は、誰が加害者か曖昧で、加害意識も極めて薄く、しかも持続性がある(つまりサステナブル)ため一向になくならないものです。そして我々も知らぬ間にそれに加担していることもあるのです。

 例えば、ハンセン氏病などは典型的な構造的暴力で、一般の人々も無意識に加担し、患者の人権を奪っていた「負の歴史」です。
 この度のコロナ禍の様な危機を乗り越えるには、このような不都合な負の歴史にこそヒントがあると氏は説きます。

人間社会に残る「淘汰」

 ところで私は先程こう言いました。「人間だけは自然淘汰を拒否して、弱い者も未熟な者も不完全な者も運がなかった者も、皆で手を取り合って生きて行くことを選択した」と。しかし現実にはなかなかそうならないのはなぜでしょう?
 それは一人の人間の中にもロゴスとピュシスが併存しているからだと私は考えています。例えば人間は「平等」という概念を発明しましたが、これは言うまでもなくロゴスです。しかし一方で「他より優位でいたい」という欲望は社会的動物である人間が本来的に持っている競争心であり、これはピュシスです。
 人間社会の中でもこのピュシスが強く働いてしまった時、それは紛れもない「淘汰圧」となってある種の人々を社会の隅に追いやったり、時には抹殺してしまいます。

もれだす自然ピュシス

 なかなか解決しない社会的な問題に、このピュシス対ロゴスの構図を当てはめてみるとほとんどは上手く説明できるように思います。
 例えば「正義と悪」。正義は極めてロゴス的な概念ですし、逆に悪は言い換えれば自然、つまりピュシスです。いくら正義で社会を治めようとしても必ず悪は漏れ出てきます。これは悪が必要と言っているわけではありません。どうやっても悪を根絶やしにできない理由は、それが人間の中に本来的に潜んでいる自然ピュシスだからだと説明しているだけです。

 こんな風に、社会に隙間無く敷き詰められたはずのロゴスのマス目からピュシスが漏れ出てくる事例は社会の至る所に見られます。しかし時代はますますピュシスを排除しようという方向にあるのは確かです。その先にあるのはどんな未来でしょうか?それを描いたのがナウシカでした。

ナウシカの問いかけ

 実は福岡氏、伊藤氏、藤原氏の3名を結び付けたのは漫画版「風の谷のナウシカ」であったということは驚きでした。漫画版というところがポイントで、映画版ではありません。

 もうかなり昔の話ですが、私も漫画版を読んだ時はかなりの衝撃を受けました。映画版とは似て非なるものだったからです。映画版の結末をよく宮崎駿がOKしたなと思うくらいのものです。その経緯をジブリマニアならよく知っているのかもしれませんが…

 そして実は今、図書館に通いながら漫画版ナウシカをもう一度読み進めています。細かいところを忘れてしまったからですが、今読んでも全く古さは感じません。それよりもあの時代に宮崎駿が投げかけた問いを、今の時代になっても真剣にとりあう人は現れません。
 
 しかしそれは私が知らないだけでした。この3人は正にナウシカの問いを真剣に受け止めていた科学者?だったのです。それを知っただけでもこの本を読んだ値打ちがあったと思いました。

 ナウシカとはどんな物語だったのでしょうか。ナウシカは勇敢で聡明で人間愛に溢れた「風の谷」の長ですが、人間の生活圏を脅かす「腐海」の謎を解こうとします。それは論理ロゴスの権化である人間と自然ピュシスである腐海と腐海の生物との正にせめぎ合いに始めは見えます。そのせめぎあいの中、謎に深く分け入った先にナウシカが見つけたものは…。実はその答えが映画版と漫画版では180度違うのです。
 
 それは言い換えると、映画版の結末は万人に受け入れやすいもので、漫画版の結末は多くの人にとって受け入れ難い「不都合な結末」なのです。ですから映画版は興行収入を優先し「後味の良い」結末を選んだのでしょう。

人間は変わるか?

 これまでの歴史で一貫してそうであったように、このパンデミックにおいても論理ロゴス自然ピュシスをコントロールしようとしてきた人類ですが、この姿勢はこの先変わることがあるでしょうか?
 私は変わらないと思っています。ですから、ロゴスをどこまでも追及した果てに人類が地球を飛び出していくのは自然なことで、かつて宇宙物理学者のフリーマン・ダイソンは、「人類は美しい地球をそのままにして、増えすぎた人口を宇宙で養うべきだ」と説きました。それ以前に、既に「ガンダム」ではそういう未来を描いていました。そして現実の今、宇宙はいっそう身近になりつつあります。

 しかしナウシカを読むと、まだガンダムはかわいいのです。ナウシカはさらにその先、「生命とはつまるところ遺伝子情報である」というロゴスを突き詰めた人類の「えげつなさ」とその向かうところを示唆しているのです。(※ちなみに私はエヴァンゲリオンは全く知りません。念のため)

 本当の疑問

 さて「ある疑問」から始まり、最後に本当の疑問です。私がいつも思うのは、もしも他の惑星から地球を眺めれば、蟻んこが2m近い蟻塚をこしらえるのも、人間が超高層ビルを建てるのも全く違いのない事ではないかということです。どちらも地球上で手に入る材料で地球上の生物が作っているのですから。

 だとすれば、人間のロゴスとやらも実は地球上の、いや宇宙の自然の一部に過ぎず、だから「自然のままに」振る舞い、資源を使い果たし滅びたらいいじゃないかと思うのです。でもそれは嫌で、やっぱり人類として生き残りたいから温室効果ガスがどうとかいうわけです。じゃあ結局それは人間のエゴだということになりますから、「地球環境を守ろう」なんていうのは「人間を守ろう」と言ってるのと全く同じです。つまり、最初から人間と自然は一体じゃないか?というのが私の本当の疑問です。

結論は?

 本書では私のこのような考えに直接呼応するような話は出てきません。3者に共通するのは「ロゴスとピュシス」を注意深く観察する眼差しです。そしてともすればロゴスに傾きすぎる人間社会に警鐘を鳴らしつつ、かと言って完全なピュシスの中では人間は生きていけないとしています。行き過ぎた「自然主義」もまた危険なのです。
 
 つまるところ両者の間を行ったり来たりしながら上手くバランスを取りながら生きていくのが人間が目指すべき道ではないかと提起しています。福岡博士は生物学の深い視点から。伊藤氏は「ままならない」身体と付き合う障害者の視点から。藤原氏は歴史的な視点から。

 しかし世の中を見ると、二元論が人気です。特に日本人は「あなたはA派?それともB派?」みたいな対立関係が大好物です。ですので「んーと、A過ぎず、かと言ってB過ぎず、行ったり来たりがいいですよ」という本書の姿勢はスッキリしないかも知れません。

 もっとこの本の面白さを書きたかったのですが、どうにも上手く表現できず終わってしまいました。私の拙い文章で興味を持った方は是非一度読んでみてください。 
 ここまで読んでいただきありがとうございました。









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