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風景で描かれる音楽

 恩田陸「蜜蜂と遠雷」の読書感想です。

 とある国際的なピアノコンクール。出場者は約100名。その中の4人にスポットライトをあて、彼らのそれまでの人生やコンクールでの演奏、そして音楽を通した出会いと成長が描かれる、と書いてしまうとどこかありがちなストーリーに見えてしまいます。ちなみにコンクールでは1~3次までの予選があり、それらを勝ち残った6人による本選で戦いは終了します。

 この作品に特徴的なのは、誰が優勝するのか?といった期待感を餌に読ませるものではないということです。もちろん各予選や本選での熱い戦いや、予選通過者の発表といった場面は特別の緊張感を誘うように描かれます。しかしピアニスト達が演奏を重ねるのを見るうちに私は、「いったい誰が勝つのか?」というようなことはどうでもよくなっていきました。おそらく多くの読者もそうだったでしょう。

 では何が、この分厚い上下巻に分かれた大作を全く退屈せずに読ませるのかというと、4人のピアニスト達の「キャラ」です。この小説がとても漫画的だなと感じたのは、この4人のキャラが一際立っているからだと思います。登場する漫画的タレント達はもちろんみな「天才ピアニスト」ではあるのですが、その「天才っぷり」がそれぞれに違っており、そこが興味深くて目が離せなくなるのです。

 さしずめ、20歳の栄伝亜夜(えいでんあや)「失われた天才」でしょうか。神童ともてはやされコンサート活動をしていた13歳の時、不運にも母親を亡くしぱったりと演奏活動をやめ、次第に世間から忘れられます。しかし彼女の才能をどうしても眠らせたくないと願うある人物により、音大生となった元神童が7年ぶりのステージに向かいます。
 マサル・カルロス「正統派の天才」と呼びましょうか。19歳ですでに演奏技術はもちろん、溢れる情熱とステージ度胸、そして冷静な分析力を持ち、おまけに長身・美男といった容姿まで兼ね備える少女漫画的キャラです。私の想像の中で彼の背景には薔薇が咲き乱れています。そして実は栄伝亜夜とは幼いうちに別れたっきりになっていた幼馴染だったのです。
 「未発掘の天才」或いは「無垢な天才」ともいえるのが、16歳の風間塵(かざまじん)です。全くの無名で、養蜂家の父の仕事を手伝いながらヨーロッパ各地を転々とする生活のため、なんと自分のピアノを持っていません。パリのオーディション会場には、直前まで仕事をしていたため、土のついた手で時間ギリギリに滑り込みながらも、その演奏は「審査基準」を揺るがすような誰も聴いたことがない規格外のものでした。これなどはまさに少年漫画によくある「天然破天荒キャラ」であり、私はこの風間塵によりまんまと物語に釘付けにされました。ピアノ界に突如現れた野生児はコンテストで正に台風の目となり、共に戦う他の天才達や聴衆、審査員にまで猛烈な風を送ることになります。この少年と、彼にピアノと音楽の未来を託して亡くなったある巨匠との「約束」も物語の大きな柱になります。
 最後の4人目は、ちょっと苦しいネーミングですが「遅れてきた天才未満」と呼ばせて下さい。楽器メーカーに勤める29歳のサラリーマンピアニスト、高島明石(たかしまあかし)です。彼のプロフィールは4人の中では最も現実味があり共感を呼ぶでしょう。私が常々テニスを通して見ているアスリートの世界にも、高島明石が住まうのと同じ領域で苦悩する選手はごまんといます。ジュニア時代にそこそこ全国に名の知れた選手であったとしても、プロとして生きていくには超えるべき大きな壁があります。そこを越えられず、会社員という道を選び妻子を得た後も「音楽家」への道をあきらめきれない高島は、実は他の出場者と違って「音楽に一区切りつけるため」にこのコンクールに参加します。しかし音楽への愛がにじみ出る彼の演奏は意外にも多くの聴衆と審査員の心を打ちます。

 ところで、私は原田マハさんの美術小説の感想を何本か書いていますが、今回マハ作品と共通するものを感じました。美術に関して素人の私は、マハ作品に登場する絵画のほとんどを見たことがありません。にもかかわらず面白くてどんどん読めてしまうのは、その絵を表現する言葉の豊かさによるものです。
 そして今回は音楽です。ピアノはもちろん音楽に関しても私は素人です。時々出てくる"カデンツァ"等の専門用語も全く知りませんしいちいち調べもしません。本作に「課題曲」として登場するクラシックの音楽家も名前を聞いたことがあるくらいで、そのピアノ曲についても曲名を聞いてメロディが思い浮かぶことはありません。にもかかわらず、です。
 まず大変興味深かったのは、演奏を表現する言葉です。「自意識過剰な演奏」とか、「ナルシスティックな演奏」、「どうだと言わんばかりの演奏」等々、鍵盤を指で叩くだけなのに、聴く人が聴けばこれだけの情報が聴き取れてしまうのか!と驚きました。これは小説だからなのか、実際に耳の良い音楽家やファンならそこまで感じることが可能なのかは分かりませんが。
 それと、レベルの高い演奏は、聞く者をその曲が表現しようとする世界に没入させるようです。天才たちの奏でる音が風景として文字で表現され我々読者の目に飛び込み脳内で再び美しい像を結びます。そして不思議なことに、私などメロディーを知らない者でも、あたかもピアノの音が聴こえてくるような心持ちになったのです。今思い出したのですが、一つだけメロディーが浮かんだ曲がありました。ドビュッシーの「月の光」です。小学校だか中学校だかの音楽の時間に聴かされた曲の中で、唯一曲名を聞いてメロディーが思い浮かぶのがこれです。本当にこの曲にはこの曲名がピッタリだなと子供ながらに感じたから記憶しているのです。ということはつまり、画家が美しい風景を見てそれを写し取ろうと絵筆を走らせるのと同様に、音楽家は五線紙に音符を書きつけていくのかも知れません。
 
 こんな風に、天才達の渾身の演奏を、とことん風景として読者に見せてくれるところが、私にとってこの作品の醍醐味であり、漫画的キャラの天才達が互いの演奏に触発されながらさらなる高みへと成長を遂げる姿もまた気持ちの良いものでした。彼らがピアノの演奏を通じて語り合う様は、アムロとララァがモビルスーツで戦いながら問いかけ合う姿に重なりました(違うか)。

 最後に、この小説を漫画的と何度も書きましたが、実は映画化されているんですね。ただこれを映画にしてもきっと面白くないだろうなと思います。(すみません)なぜなら映画にする以上、実際に誰かに演奏させなければなりません。しかしどんな名ピアニスト4人を連れてきたとしても、素人の耳にはその演奏の違いなどわからないからです。ところがこの作品の肝は、選りすぐりの出場者達が奏でる「音の違い」にあり、文字だからこそ私の様な素人でもその違いが楽しめるのです。ピアノの映画と言えば『Shine』を思い出しました。あれはなかなか出逢えない素晴らしい映画でした。今また観たくなっています。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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