見出し画像

Tへのメール 再返信

今日20代に多く悩んできたことや、今の私がここまでやってこれたことを考えながら歩いていた。いちいち疑問を感じて自問自答したり、自分なりの答えを色々なものに探してきたと思う。

あまりにもそれが多くて疲れたり、パニくったり、出口が見つからなくて泣いたりしたけど自分が経験したことを自分のできる限り吸収してきたんだってようやく感じれるようになってきた気がする。

私の20代前半は本当に体全体で色んなことを求めていて、自分の中の考え方がほんの一か月で、一週間で、一日で変わっていたりして困惑していたんだと思う。


同じ経験をしても、与えられてるものは同じなのにそこから得るものは人によって随分と違いがあるような気がする。そのことについて考えてみたり、比べてみたり、自分なりの理由を探してみたり、以前に考えていた別のことに関連づけてみたり、それをまた改正してupdateしたり。

だからだんだん頭の中は色んなことへの自分の考えでいっぱいになる。どれもこれも何回もうupdateを重ねているから外へ出すときにはその時点で自分がある程度納得できるような内容になっていたりする。


思考するのって本当に疲れる。考えてる時点でそれはもう楽観的ではないし、そういう人を見て羨ましく思ったこともあったけど、最近は今の私でもよかったのかなと思えるようになってきた。


でもただ考えるだけじゃダメだ。できるだけ偏見のない良識でまともな出だしを設定する。そうじゃないとその後の仮定や理論もどんどん現実離れしたものになって行く。その能力を養うために自問自答ってやつが必要になってくるんだと思う。


そうでなくっても人って一生に一度は規制の概念を根底から疑ってみたり、親の価値観を拒んでみたり、或いは自己否定してみたりする時が必要だと思う。出ないと規制の枠の中や親の作った価値観の中から物事を見ているってだけでいつまで経っても自分の目で世界を見て判断したり考えたりすることができない。

自分が今まで当然に受け入れてた価値観を客観的に正しいのか疑ってみたり、自分で見るまいと蓋をしてきた自分の内面を美化させずに向き合ってみたり、誰だって自分がかわいいから否定したくないし、汚い心は正当化しておきたい。

別にネガティブに自己喪失しろとか自己嫌悪に落ち入ろって言ってるわけじゃない。今の自分を否定する勇気がないと今以上の自分にはその後もなって行けないと思う。


きっと自問自答の成果が自分の内面の成長に繋がると思う。+αを重ねたものの無い人はいつまで経っても刹那的で掴みどころがなくて、理解したくても周囲の人たちが理解したい核みたいなものが内面に欠落していて何かを共有したり、築けたりする相手にはならないんだと思う。

自問自答の無い人は浅い人生をおくる。どれほど意義ある経験をしようと価値ある経験をしようと浅くあるべきして浅い。浅かろうが深かろうがそれ以上に深いものを知ることがないだろうから本人が幸せっていうのが一番だと思う。


だけど一度今いる時点より少し深いものを見てしまった人にはその深さがある程度計れるんだと思う。知ってしまったらもう浅い方へは戻れないんだろう。人生は皆に一生に一度、一定以上伸ばせないなら後は掘り下げるしかない。



自分のいる世界を遠巻きに見てみたら、それはもっともっと大きな存在な誰かのほんの手のひら程度のもので、本当の世界っていうのはまだずっとずっとその外に広がってるんだろうと思う。

誰もが恐らくその手のひら程度のことしか一生をかけて知ることはできない。だけど人生には何度か一瞬世界の広さを遠巻きに感じれる瞬間があると思う。私はそれをできるだけ逃したくないと思っている。

いくら人生悟ってみてもどんなに労力を費やして自分なりの答えを導き出してきたとしても、なんて自分の存在はちっぽけなんだろうっていう落胆や挫折感じゃない、解放感に近いその感覚を私はこの先も何度も何度も求めていくんだろうと思う。


社会人になった君にはこんな話がだんだんどうでもよくなって目先のことでいつか頭が占領されていってしまうんだろうけど、それが学生と社会人の違いって言えばそうなんだろう。

君が東京で頑張っていることを願って。

サポートしてくれてありがとう。自分の創作活動にあてます。