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てのひら

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掌編小説集。
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奇妙な恋人たち

奇妙な恋人たち

 もし、あなたが「奇妙な恋人たち」の姿をその目で確かめたければ、午前七時一分にS駅を出る、とある鉄道の三号車に乗ればいい。その車両には、青いコートに身を包んだ魔女のような顔立ちの女と、黄色い帽子の年老いた男が、しっかりと手を握り合って座っているから。毎朝、同じ時間、同じ車両に、必ず。
 初めて二人の存在に気づいた時、見てはいけないものを見てしまったような気がした。街中で、前を歩く女子高生のスカート

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シェル

シェル

 暗闇に光る液晶画面を眺めながら、僕は首を傾げた。どのアカウントもとうとう黙り込んでしまったのだ。
 異変に気づいてあちこち見て回った時にはもう遅かった。すべてのサイトは更新が止まっていた。
 僕は何か月かぶりにカーテンを開けた。夏空には雲一つなく、世界は退屈な平和に包まれていた。アパートから見える裏庭に繋がれていた犬の気配もない。

 ああ僕は本当にひとりになってしまった。
 いや、生まれた時か

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時計のない街

 目覚めた時、何時なのか分からなかった。昼なのか夜なのか、遮光カーテンを揺らす風が生温かくて、僕は微睡のなかに溶けていた。憶えていることといえば、昨日の朝に酷い寝坊をして、会社に二時間遅刻し、上司の嫌味を一日中聞かされる羽目になったこと。山のような残業を片付け、最終列車に滑り込んで、近所の飲み屋でやけ酒を仰いだこと。そこから先の記憶が無い。
 眩暈とともに起き上がり、カーテンを開けた。空には雲一つ

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階段

 他愛も無いお喋り、夢の中での思いがけない遭遇、小さな約束、そして、答えあわせのような告白。アイスクリームが溶けていく速度で、近づく身体。傷の記憶。むき出しの言葉。契約の破棄、そして訪れる終局。
 二十一歳にして女性を知らなかった僕の想像上の「恋愛」とは、そういうものだった。
 彼女との関係性にどんな名前をつけたら正解だったのか、未だに分からない。

「上った時と、下った時とで数が違うのよ」
「ど

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静寂

 時計の音が、永遠のような一瞬を積み重ねていく。確実に、人生は消費され続ける。そのことを忘れるため、高校生の僕は、常に耳を塞いでいた。両耳からだらしなく垂れた黒いコードはある点で結ばれ、そのままターコイズ・ブルーの四角い機器につながる。ボタンを押せば千種類もの世界が流れ出す。音楽は僕の生きる世界そのものだった。
 だから、ポータブル・オーディオプレーヤーを落としたあの日、僕の世界はそこなわれてしま

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永い眠り

 

 彼女は眠っている。僕は目覚めている。彼女の傍らで、瞬きもせず、壁の無機質な白を眺めている。だが、この白は本当に壁の白だろうか。僕は今、部屋にいるはずだった。誰の部屋に? 僕の部屋に。しかし、僕がいるのは夢のなかかも知れない。ここが現実であるという証拠はどこにもない。
 傍らの彼女は、死んだように眠り続けている。何時間こうしているのか、定かではない。彼女は死んでいるのかも知れない。どちらにせ

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 その街の片隅には小さな廃墟があって、崩れ落ちそうなコンクリートの壁に囲まれた奇妙な空間は、ギリシアの遺跡を思わせる美しさであった。かつてそこにどんな建物が建っていたのか人々は憶えていない。今はたびたび旅芸人がやってきては、その灰色の空間を舞台として利用していた。少年は、毎日そこを通りかかっては、物珍しい芸人がやってきてはいないか、と心を弾ませた。誰もいなくても彼はそこに留まり、子どもらしい空想を

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