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「ふつう」を捨てる

 「30になって心境の変化はあった?」と聞かれた時、微酔いで「恥ずかしながら、今更人付き合いって大切だなと思うようになったよ。」と即答した自分がいた。学生の頃の私だったらあり得ない発言だ。他人からの評価ばかり気にしていたあの頃の私にとって、人付き合いは恐怖でしかなかった。端的に言えば、私には社会性というものが欠如していた。周りの人たちの「ふつう」を知らなかったし、「ふつう」ではない自分に対して、気が狂いそうなほどの羞恥心を抱いていた。「ふつう」ではない自分が「ふつう」の人たちと交際しても受け入れられるはずがないし、孤立するのが当たり前で、一匹狼として生きていくしかないのだと思っていた。
 
 そんな私は、最近、とある文章を読んで考え込んだ。なな様の「ふつうがくるしい」という文章( ふつうがくるしい - nov14b’s blog (hatenablog.com) )だ。なな様とは、ツイッター(と、かつて呼ばれていた世界)で知り合った。鋭いことを美しい文章で表現される方で、以前からブログをよく拝読していた。

 「ふつうがくるしい」の冒頭に書かれているような、幼い頃「ふつう」の世界に溶け込めなかった居心地の悪い記憶は私にもある。私も大学生の頃までは、みんなの知っている芸能人も芸人も知らず、会話についていけなかったものだ。ファミレスにもカラオケにもゲームセンターにもほとんど行ったことがなく、そのような場に行く機会があるとどのように振舞えばよいか分からず、よく周りから失笑されていた。習い事をした経験もなく、人前で何かを発表したり発言したりすることも極度に苦手であった(これが悪化して、「社交不安障害」、いわゆる「あがり症」のような症状を呈するようになったのだが、この話については以前 社交不安障害(SAD)について(前編 私の体験した苦痛)|土萠めざめ (note.com))、 社交不安障害(SAD)について(後編 私に苦痛をもたらしたもの)|土萠めざめ (note.com) にものすごい熱量で書き殴ったので参照いただけたらありがたい。)。

 深く共感を憶える一方、読み進めていくうちに「ふつうがくるしい」の筆者と私とは何か根本的に異なる部分があるとも感じた。もちろん筆者の体験や主張自体を否定しているわけでは全くない。同じように「ふつう」という概念に苦しんできた私たちだけれど、その苦悩の中身にはおそらく異なる背景があり、それぞれの答えがある。そこで私も、自分を今日まで縛りつけてきた「ふつう」という概念に向き合ってみようと思った。



 「ふつうがくるしい」のなな様は、「ふつう」に生きられない原因をご自身の生まれ持った特性に見出しているように見受けられる。一方、私は「ふつう」に生きられなかった原因をこれまで環境のせいにしてきた。
 両親ともにこだわりが強く、テレビを自由に見せてはもらえなかったし、漫画もお笑いもロック音楽も「くだらない」と遠ざけられた。母は、体重や食品添加物を過度に気にする人だったので、市販のスナック菓子を食べたりファミレスに行ったりすることもなかった。極端な学歴志向で、放課後に友人と遊ぶのも禁止され、家の手伝いはしなくてよいから勉強だけしているようにと言われていた。
 実家を出る頃には自分の育った家庭について懐疑的な見方をするようになった。遅れてきた反抗期のようなもので、こんな原家族のもとで抑圧されて育った私が「ふつう」の人間になれるはずがないと思っていた。随分あとになって、自分の育った家庭は外から見れば「ふつう」の部類だったのかもしれないと思い直したが、それでも、「くだらない人たちとくだらない話をしている暇があれば、少しでも勉強して『上』を目指すように。」と言われて育った私にとって、目の前の「ふつう」の世界で生きるのは苦しかったと今でも思う。親から求められるものと、家庭の外の世界で求められるものとの間の大きな齟齬。親から認められたいという欲求を優先した結果、私はクラスの変わり者となった。
 しかし「ふつう」になれない原因が環境にあるということは、環境を変えれば「ふつう」になれるということでもある。大学生になり、親元を離れ、自分の興味関心に初めてじっくりと向き合い、同じ興味や趣味を持つ人たちとつながった。マイナーな仕事に就き、職場で知り合った人と結婚し、出産した。今や私を取り巻く環境は与えられたものではなく、私自身がつかんだものとなった。そのような環境の中で、今の私は「ふつう」に生きているようにも思える。
 私が「ふつう」に近づけたのは、興味関心が幅広い夫と生活している影響も大きい。流行っていることや、職場のマナーなど、分からないことはたいてい夫に聞けば教えてもらえる。職業柄、興味関心が近い人たちが周りにたくさんおり、変わり者も多いので、私が多少世間知らずで流行りに疎くても「浮かない」という事情もある。

 こうした人生を選んだことが良いことだったのか、そうではないのかは、難しい問題だと感じている。幸せだと思う点は、毎日心穏やかに過ごせていることだ。未だに空気を読んだり気の利いたことを言ったりするのは苦手だが、みんなの「ふつう」になんとなく擬態して、「ふつう」の空気に溶け込んで、特に浮くわけでもいじめられるわけでもなく生きている。

 けれども、今の私には「個性」がない。「ふつう」になろうとしすぎて、私は「透明」になってしまった。もはや自分が何が好きで、何が苦手だったのか思い出せない。
 かつて私はお笑いも映画も苦手だったのだけれど、今はどちらも好きだし、テレビをだらだらと垂れ流すことにも慣れてしまった。CMを見ては、物欲が刺激されて、気づいたら浪費をしている。僅かな余暇にどの本を読むか、自分の興味や直感ではなく、流行しているかどうかで決めてしまう。宣伝、流行、口コミに踊らされる、自分の頭で考えない怠惰な人間。それが、今の私である……というと言いすぎかもしれないが、少なくとも昔に比べてそうなりつつある。そんな自分に嫌気がさすのだ。

 学生の頃の私は、「ふつう」になれない引け目から、「ふつう」の人たちのことを嫌悪していた節がある。それどころか、引け目をこじらせてとがった結果、「テレビを観ない、流行に興味のない、他人とは違う価値観を持っているワタシ」に対する、微かな誇りのようなものも抱いていた。しかし、そんな価値観も親から植えつけられたものだとしたら、私の個性っていったいどこにあるのだろう。
 考えてみると、「ふつう」ではなかった頃の私にブレない「芯」のようなものがあれば、私は苦しんでいないはずなのだ。周りから変わり者と呼ばれても、「これが私なのだ。」と開き直ってしまえばよかっただけだったのに、それができなかったのは、「芯」がなかったからに違いない。
 「芯」とは、揺るぎない「自分らしさ」のことだ。「親に言われたから。」ではなく、「ふつうはこうするから。」でもなく、「私はこうしたい。だってこれが私の個性だから。」と自信を持って言えたことが、これまでどれほどあっただろうか。

 要するに、私には「自分」がなかったために、かつては親の言いなりになって周囲から浮き、「ふつう」になりたいと願ってもがいていたのかもしれない。そして、自らが選んだ環境で「ふつう」に擬態し、心の安寧を得ることができたが、一方で、ますます「自分」を見失っている。これが、私の苦しみの正体のような気がする。



 あえてもの凄く陳腐な言い方をすると、今の私がすべきなのは「自分探し」なのだと思う。「自分探し」というワードは一昔前に流行った記憶があるが、かつての私は嫌いだった。「本当の自分」なんてどこにもいないし、そんなものを探して何になるのか、と思っていた。
 だけど、現実ではありもしない「自分」を「探す」ことを求められることが多々ある。「あなたはどう思うのか。」「あなたはどうしたいのか。」と。すると、私のように「相手にどう思われるか。」「この場で私がすべきことはなにか。」と他者基準で物を考えて行動してしまう人間は、フリーズしてしまう。そして、「ふつうはどうなのか。」と「ふつう」にすがって答えを出そうとする。
 そうではなくて、自分はどう考えるのか、自分はどうしたいのか、ハッキリ答えられるような人間にならなければ、私はこのまま透明人間になってしまう気がする。
 だから、私は自分が何者なのか知る必要がある。どこかできっぱりと、「ふつうの私」を捨てる必要がある。そういう意味での「自分探し」がしたいのだ。
 本にしても映画にしても、流行していることをきっかけに興味を持っても構わないが、流行だけ追いかけて終わるのではなく、作品を鑑賞して自分はどう感じたのか事細かに言語化できるようになりたい。そして、それを誰かに伝えたい。
 自分を探すためには、こうしてパソコンに向かって読み手がどう感じるか考えながら文章を紡いだり、様々な人と会話しながら価値観のすれ違いに気づいたり、そういった他者との触れ合いが必要な気がする。
 30になってようやく人付き合いに目を向けるようになった理由のひとつに、他者と話すことで自分を再発見したい、という気持ちもあるのだ。


 ” Don't Trust Over Thirty ” という言葉の語源はよく知らないが、「30を超えた人間の言うことは信用するな」という意味らしい。なるほど、「ふつう」に迎合して、自分の意見も持たずにヘラヘラと楽して生きている今の私は、20の頃の私から見たら「信用ならない」人間だろうなと悲しく思う。
 若かった頃の私には、「ふつう」に溶け込めない苦しみと、「私は他人とは違う。」という微かな誇りの両方があった。苦しみを手放すとともに、誇りまで失くしてしまった今、私は再び誇りを取り戻したいと願っている。そうすれば、もう「ふつう」に苦しむことはないはずだ。私は今、自ら望んで「ふつう」を手放そうとしているのだから。





あとがきのようなもの


 「『ふつう』を捨てる」と書きながら「ふつう」ってなんだろうなと思った。この世に「ふつうの人」なんて存在しない。自分以外の人たちを勝手に「ふつう」かそうでないかカテゴライズして見ているだけで、その基準って実は曖昧だ。
 「ふつう」になれないことに苦しんでいた過去の私も、別の誰かからは「ふつう」に溶け込んでいるように見えていたかもしれない。それでも、私が苦しんでいたことは事実だ。

 「ふつう」ということばには「多数派である」という意味合いと「正常である」という意味合いの二つに分解できる気がする。前者は極めて主観的なものだと思うし、後者になると医学的な問題にもなり得ると思うが、おそらくお医者様だってその境界線をはっきり引くのは難しいだろう。「ふつう」か否かは主観的なものと考えて、ありのままの自分の気持ちを綴ってみた。
 
 朝井リョウさんの「正欲」を読んだ時に気付かされたことだが、多様性を認め合おうと叫ばれているこの時代だからこそ、かえって「自分はふつうなのか、そうではないのか」という人々の自意識が高まっている気がする。「ふつう」ってなんだろう……考えれば考えるほど霧の中を彷徨っている気分になる。