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「勉強」について(前編)

 人には、元々持っている知能水準、俗に言う「地頭」よりも極端に高い学業成績をおさめてしまうタイプと、元々能力が高いにもかかわらず、成績が伸びないタイプとがいるらしい。前者をオーバーアチーバー、後者をアンダーアチーバーという。
 私は確実に前者だ。オーバーアチーバー、よく言えば頑張り屋さん、悪く言えばガリ勉タイプである。

 学歴はその人が社会に役立つ人間か否かを証明するものだと思っている人は未だに多い。私の両親もそんな学歴主義者であり、私が良い大学を出るようにとあれこれ手を尽くしてくれた。私はその期待に応えようと必死になったけれど、元々持っている能力には限界があった。結局、ある程度の「学歴」を手に入れることはできたものの、精神的に壊れてしまったのだ。

 資格試験のために久しぶりに「勉強」をしながら、この頃そんな過去を思い出すことが増えた。「私」と「勉強」について書くことは、私にとってはほとんど自分史を語ることと等しいので、知人に見つかりはしないかと怖いけれど、衝動のままに徒然書き連ねてみようと思う。


 私のがり勉人生の始まりは、小学4年生の頃、母親に連れられて初めて全国模試を受けた時だった。塾にすら行ったことがなかった私は、見知らぬ建物で試験を受けるだけでもかなり緊張した。返ってきた成績は、平均並みかそれ以下くらいだった。私が優秀だと信じ込んでいた母はショックを受けた。そして大量の問題集と参考書を買ってきた。
 それから私は学校から帰宅すると、毎日勉強ばかりするようになった。母が悲しんだり怒ったりする顔を見るのが嫌だったからだ。元々、私は母に友達付き合いを制限されていたし、習い事も何もしていなかったので、勉強をする時間ならいくらでもあった。
    そうしてガリ勉を続けた結果、6年生になる頃には模試で県内で3本指に入る成績をとってしまった。塾にも行っていないのに、私の名前がランキング表の上位に載ったので、田舎社会では噂が一気に広がり、私はちょっとした有名人になった。誇らしく思う反面、心のどこかでは分かっていた。「私は頭がいいんじゃない。親のいいなりになって四六時中馬鹿みたいに勉強しているのだから、点数が取れて当たり前なんだ。本当の私の成績は、平均以下なんだ」と。自分は周りを騙しているんだ、なんて思うときもあった。
 でも、「優等生」というレッテルを剥がされるのも嫌だったから、中学生になっても必死で勉強した。テストで100点をとると、教師には褒められ、クラスメイトからは一目置かれて、気持ちがよかった。私が良い成績を持ち帰ると、夫婦喧嘩ばかりしていた両親の顔が明るくなるのも嬉しかった。しかし、運動部と勉強との両立は、私のキャパシティからしてかなりキツかった。キツすぎて、秋には身体を壊してしまった。喘息になったのだ。
 医者からは運動をやめろといわれたので、泣く泣く退部届を出しに行ったら、顧問は「どうせ部活をやめて勉強するんだろう」という趣旨のことを言った。その言葉にはバカにするようなニュアンスが含まれているように感じた。顧問は体育教師で、完全なる体育会系人間。私が部活で腕が上がらずヘマばかりしている一方、やけに成績が伸びているらしいのが気に入らなかったのかもしれない。顧問の言葉は悔しかったが、実際、部活に充てていた時間が余るので、勉強を余計にするしかなくなってしまった。当時の私には、暇な時間を一緒に過ごす友達もいなかったのだ。
 勉強しかすることがないなら、偏差値の高い都会の高校に進学して、早く田舎社会から飛び出したいと思った。母親も、そんな私の希望を喜び、親戚宅に住むことができれば、都会の高校にも通うことができる、というような趣旨のことを言った。私はますます勉強に励んだ。しかし、ある日突然、母親から現実的に考えて都会の高校に行かせるのは無理だと告げられた。私は何のために勉強していたのか分からなくなり、すべてのやる気を失った。勉強ばかりしていた私はクラスでも浮いていた。部活も辞めたので、居場所がなかった。

 家から通える普通科高校で自分の偏差値に合ったところがなく、普通科以外を選択するのも嫌だったので、高校は、自分の偏差値よりかなり低いところへ進学した。すると、入学試験では学年1位の成績だったらしく、入学式前に高校から電話がかかってきて、学年代表の挨拶をやるようにと言われた。それは喜ばしいことではあったけれど、今度は入学式から「学年トップ」というレッテルを貼られるのか、と思うと憂鬱にもなった。実際、周りから距離を置かれているような気がして寂しかった。対人恐怖症がひどくなったのもこの頃だった。
 高校の教師からは、某有名大を目指すようにと言われた。母は、そのことで何故か有頂天になって、また大量に参考書や受験攻略本の類いを買ってきた。私の中に、嬉しい、誇らしい気持ちが無かったといえば噓になる。このままトップを走り続けて、見事有名大学に合格すれば、私の両親も私を認め、誇りに思うだろう。みんなからも尊敬されるだろう。そんな甘い想像もしていた。でも、私が勉強する理由なんて、そんなくだらないものでしかなかった。そのくだらなさを、心のどこかで自覚していた。
 それでも、私は言われるままに某有名大に受かるための勉強を続けた。しかし、高校3年間を通して私の成績は下がる一方だった。私は精神的におかしくなり、対人恐怖症も悪化して、不眠症になってしまった。私の成績が下がると私の母も気が狂ったように参考書を買い足すものだから、ますます私は苦しくなり、親子共倒れのようになっていた。ちょうどその頃、私の両親の不和もピークで、家で勉強していると父母が激しく喧嘩する音が聞こえてきた。家にいるのが辛く、学校に行くのも辛い。私にとっての高校生活は地獄でしかなかった。
 案の定、某有名大学への進学は叶わなかった。しかし、幸運なことに、私が密かに憧れていた第二志望の大学にギリギリのラインで合格しており、私の中では、救われた結果となった。
 大学に受かったのだから、もう勉強なんてするものかと思った。しかし、大学受験が終わったからと言って、「勉強」の呪縛から逃れられたと思ったら、それは大間違いだった。 (後編へ続く)