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誰しもが住みやすい社会へ

ADHD ASDの要素は誰しもにある?

https://bunshun.jp/articles/-/53525

誠先生が、文春オンラインで述べている記事の中で
いま認知科学の領域では、大多数の人は定型発達からASDやADHDへのなだらかなグレーゾーンのどこかにいるのではないか、という考え方が広まってきています。つまり、発達障害の診断には至ってないものの、たとえばASD的な要素を大なり小なり持っている人はたくさんいて、発達障害者とくっきりと線引きできるものではない。違いは曖昧なのです。

とおっしゃっている。私は、以前、躁うつ病の勉強をしており、その中で躁鬱スペクトラムの概念というものを知り、同じように発達障害に対してもスペクトラムという概念だと考えている。
私流の言い方では、発達障害の要素は、果汁みたいなもので、ADHD とASDの混合の私はミックスジュース。ADHD要素はないけど、感覚過敏が少しあるような人は、ASD果汁10パーセントとか。
誰しもが、何らかの発達障害的な要素はあるのではないか。それが、うまく融合されていれば、社会生活に支障をきたさない場合もあるし、環境が調整できないと社会に適応できないこともあるだろう。
境界は曖昧なのだと感じる。

誰もが住みやすい社会へ。
私は、対人支援を仕事としており、日々、いろんな人に接する機会がある。
ADHD要素が強く、人への興味が強いことから、この仕事ができていると思っている。どこか、発達的な要素がある人とは、何らかのシンパシーを感じるので、何も聞かなくても同じカテゴリの人だとわかるところがある。
発達特性のある人は、どうしても他者から、その特性が異質に思われる。
「変わった人、個性的な人」と言われてしまう。認知のゆがみや、自己防衛反応、感情の表出が抑制できないなどで、一緒に仕事をする人たちは、何らかの異質さを感じて、我慢することもあると思う。
受け取り方、感じ方、表出の仕方が違うので、理解するには時間がかかる。私自身、発達特性がありながら、なかなか自分のASD的要素には気づかなかった。

だけど、同じ発達特性がある人たちを理解するには、同じ要素がある私たちが、1番理解しやすいのではないかと思う。私は、発達グレーゾーンなので、もっと発達特性が濃い人に対しては、やはり不可解だと感じてしまう。でも、自分の中の記憶力と、共通点を見つける分析力から、その発達障害の人の行動の原因を見極めることはできる。例えば、不安の強さや拒否的な言動などの行動である。
コミュニケーション障害や発達特性が、きつくなると、会話は通じているのに、社会性の低さや、本人のこだわりを何度直して欲しいと伝えても伝わらないし、変えられないことに気付く。
そして、最終的には、会話することすら無駄に思えてあきらめてしまう。家族でなくても周囲はカサンドラになってしまう。

そんな時は、なるべく距離を取って遠くから冷静に眺め、仕事上であれば、逸脱性は範囲内であればよしとして、家族であれば、他人に迷惑がかかっておらず、本人が幸せならそれでよしとするくらいの理解度が必要ではないか。
誰しもが住みやすい社会になるには、互いに違いを理解し、近づきすぎず、遠目に見守るような間柄が必要だと感じる。

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