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言葉の定義が、意外とバラバラな僕ら。


僕たちが普段使っている「言語」は、表現の方法として、絶対的なものと認識されがちだが実は、かなり限定されている表現の方法。


でもそのことに気づいていない。言語とは、分解すると、言葉と言葉をつむいだ言葉の連続体。その中で、僕たちは、その一つ一つの言葉(ワード)の定義を、すべてはっきり理解したうえで使っているのだろうか?



考えてみると、何か壁にぶつかった時や、問題を解決しようとするときに
言葉の定義を、もう一回考えてみること
(再定義)

で新たな考えに至ることは、往々にしてある。


「〇〇ってそもそもなんだっけ?」


みたいなアプローチが、ブレイクスルーになり、進めているプロジェクトの状況が良い方向に向かうことは多くの人が経験していることだと思う。
このような、「再定義」の重要性は、ドラッガーの本に書いてあって学んだ。とにかくこの視点は、ビジネスの話だけでなく、もっと広い意味にも当てはまる真理だと思っている。



例えばでいうと、まず、


人と人が意見が食い違ったり、対立したりする原因を考えてみると、普段話している会話とは、無数の言葉(ワード)が使われている。その無数の言葉を高速でラリーして人と人がコミニケーションが行われているわけだけど、ここを、どうか冷静にとらえてほしい。



その会話は、本当に発する側と受け取る側は、同じ意味で、内容を理解できているのだろうか?


その無数に使用される言葉(ワード)、その一つ一つの言葉の定義は、共通なのか?そんなわけはない。ここを簡単に、できてると考えるのは、楽観的すぎる。全員が同じ意味で、全ての言葉を定義できているなんて不可能だと僕は思う。



考えてみると、人が言葉を定義するには、その人の体験や、過ぎ去った記憶、知識、周りの人間関係、感情、願望、イメージなどいろんなものが入り混じって言葉を定義している。


つまり、その言葉の意味を「自分なりの解釈」で決めて使っているところがある。それら全てを、同じにするなんて、そもそも可能なのか?

実際に、どんなことが起きているかというと、同じ物理空間で、同じ日本語を話しあっていても、その本人たちの「頭の中の情報空間では、全く違う解釈が展開」されている。それでさらに、一番問題なのは、僕たちがそのことに気づいていないことだ。



だから人は、人間関係に悩む。


コミニケーションが苦手だという。そのほとんどの原因は、言葉の定義が違うまま激しくコミニケーションをしていることで起こっているのではないか?じゃあどうするか?



基本、人間の良心はそんなに大きくは違わない。だから、ズレている言葉の定義をその場で確認し合って、それからもう一度コミニケーションすれば多くの場合は理解しあえるはず。だからその確認し合う姿勢があるかないかで結果は大きく違ってくる。



次に、


自分自身の信念や価値観について、言葉の定義がどんな影響を与えるか?


を考えてみると、信念は、言ってしまえば、自分の中で重要だと思っている概念を言葉と言葉をつむぎ合わせて、一つの文章として構築したもの。それを自分の「信念」としているわけだけど、 ここに含まれる言葉の一つがもし再定義されたらどうなる?その言葉の意味合いが微妙に変化したら?


その瞬間から、信念や価値観も意味合いが、変化していくのではないだろうか。だから結局のところ何が言いたいのか?というと、



今、思っている自分の意見や信念は、そんなに絶対的なものではない。
所詮。「今の言葉の定義の状態」での、意見や信念に過ぎないということ。人は生きていたら、否応なく新たなことを学ぶ。その都度、言葉の定義も少しづつ変わる。学ぶことに、積極的な人たちはなおさらそうだ。



だから言葉の定義が変化すれば、それにより他のものも変わる。つまり、信念も少しづつ変化していく。ここをみようとしているか?いないか?で人生から得られるものは格段に違ってくるのではないだろうか。



ということで、まとめると、



「言葉の定義を疑う」いつもこれを念頭において、もし曖昧な言葉の定義があれば積極的にはっきりさせること。これを習慣にする。すると、


・本質の理解度は深くなる
・問題を解決できるきっかけになる
・必要のない揉め事を避けられる


という今日のアウトプットでした。最後まで読んでくれた方ありがとうございました! 

※creamソーダのMidori(メロン)

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