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限界から始まる―男女のゆく先

嗚呼、うつろな、気の遠くなる、くさくさした日々よ。

悲観に明け暮れ、ぼんやりと過ごしていたら、コロナ禍を逆手にしたたかに生きる二人の女性をみつけた。

書籍『往復書簡 限界から始まる』は、1回目の緊急事態宣言が発令されたさなかの2020年5月から約1年間、上野千鶴子さんと鈴木涼美さんがやりとりした書簡をまとめたものである。

(1)「往復書簡」の罠


上野千鶴子さんは、言わずと知れた女性学・ジェンダー研究に先鞭をつけた社会学者であり、東京大学名誉教授。ご存じの方のほうが多いと思うので、説明は割愛する。

鈴木涼美《すずみ》さんは、慶應義塾大学環境情報学部を卒業後、東京大学大学院学際情報学府で修士課程を修了。在学中にAV女優などを経験したのち、日本経済新聞社の記者となったが、2014年に自主退職した。

お父様は、エーリヒ・フロム著『愛するということ』や、エリザベス・キューブラー・ロス著『死ぬ瞬間』の翻訳者として著名な法政大学名誉教授 鈴木晶さん。お母様は児童文学研究者・翻訳者の故・灰島かりさん

つまり鈴木さんは、エリート一家に生まれ、かつその名に恥じない頭脳と、美貌をも備えた女性である。

そんな二人が、「エロス資本」「母と娘」「恋愛とセックス」「結婚」「承認欲求」「能力」「仕事」「自立」「連帯」「フェミニズム」「自由」「男」について、どんなことを書いているのか。

これが、じつに奥深い。

「往復書簡」という形式は向こう側にいる一人の生身の人間と対峙している意識が働く。だから、不特定多数の読者がいるとわかっていながら、今まで誰にも話さなかったことをついつい書いてしまう。そう上野さんが幾度となくこぼしているように、両者の思いのたけが赤裸々に語られているのだ。

それゆえ、ときに痛々しくもあり、ときにわが心を代弁してもらっているようでもあり、終始目の離せない内容であった。

(2)母は娘を支配する

高学歴でありながら「元AV女優」という冠をつけた(つけることを厭わない)今の鈴木さんに絶大な影響力を与えてきたのが、母である灰島かりさんであったことは、文中で何度も語られている。

児童文学研究者であった母が、わが子を研究対象のように見ていたこと。「言葉による理解をあきらめず、言葉によるぶつかり合いは全く辞さない人」であったために「言葉の外に出る自由がないような気分にさせられ」たこと。

これらに対する反発心ゆえに、母が最も理解しがたい「言葉を超えるもの」、すなわち「愛の所在と娼婦への嫌悪感」を体現したAV女優になってやろう。

親の理解の範疇、支配下から抜け出た場所に身を置きたかったのだ、と鈴木さんは自己分析する。

なるほど、精神科医の斎藤環さんが「すべての母娘関係は支配関係である」というように、どんなに知性の高い女性であっても、娘に何らかの制約、呪縛なるものを渡してしまうのかもしれない。

かくいうわたしも、母から渡された言外のメッセージになかば従い、なかば抵抗した場所にわが身を置いているように思う。とはいえ、わたしなど地方のごく一般的な家庭に育っただけだから比較対象にはならないのかもしれない。

鈴木さんのような社会で名を馳せる父母の下で、どう自分が生きていくべきか、長いあいだ生存戦略を模索してきたひとの心ははかりしれない。

父母とは違う何者かでなければならないという強迫観念。しかも、単なる「何者」ではなく「つわもの」でなくてはならない。AV女優を辞めた現在でさえもその冠を使い続け、自分の後ろに道をつくろうとする彼女は逞しくありながら、意固地にもみえ、不憫にも感じる。

AV女優として「肉体としての裸」を見せ、その役を脱してからも元AV女優の書き手として今度は文章で「心を裸にして」自分を売り続けている。これはこれで他者がもの珍しさに覗き見たい衝動、ある種のフェティシズムを働かせることを禁じ得ない。が、このような心の売り方、身を削る生き方は自分をすり減らしそうで、亡くなってしまったお母さまと、過去と、和解できる日がやってくるといいな、と思ってしまう。社会は稀覯な見世物、生贄をどこまでも尊ぶように消費するのだから。

(3)「自分」という役の「限界」

タイトルにもあるように、どうやら彼女自身にも何らかの「限界」という意識はあるようだし、はたから見ているわたしもその文体から「限界」を感じとった。

この書簡において、人生の先輩であり、かつ社会学の権威である上野さんを前にしては、後輩として女の窮状を訴え、自分の違和感を吐露する文体で応答する役がどうしても求められる。ましてや社会学の講釈をたれることなどできない。父や母のような学者とは違う人生を歩みたい願望もあるのかもしれない。

だからなのか、ときに鋭い視点を提示してくれるものの、鈴木さんの文章は、青くさく、迂遠で、自分とその周辺という世界から抜け出せていないようにもみえてしまう。「私」が強く、自分を掘り起こすことで自分を傷つける。しかし、その傷ついた自分に酔いもする。

「私」という単語の登場回数の多さ。「自分ら」―たとえばAV女優時代の友人であったり、新聞社時代の友人であったり―という小さな単位で人間の結束をうつしだす表現。ブルセラで下着を売っていた高校生のころ、男たちがその下着を被って自慰行為をするすがたを見て世の中に絶望した、と人間の極端な部分だけを切り取って断罪するようす。

誰もが羨むような恵まれた環境に育った彼女は、その環境に反発し、わざと人間の低くて暗い場所を知っているんだぞと強がっているような気がする。性は人間の根源であり、その現場にいたということは誇り高くもあるだろう。低さと高さを操り、操られ、最終的には高みから解き明かそうとしたいようだ。

「知的でなければならないという服」「女でなければならないという服」を着せられた純粋な少女が、偶然と必然によって与えられた服を着こなそうともがいている。すれっからしのように。アヴァンギャルドに。

しかし、それも計算高い彼女が意図的に用意したキャラクターであり、こんなふうにわたしに言及=消費されているのは、商売のうまさととらえることもできる。

ああ、たぶん「賢者」でもなく、「女」でもなく、「鈴木涼美」になりたいんだろうな。

彼女は「限界、限界」と言いながら、死ぬまでこの役を演じていくのだろうか。

(4)「同床異夢」の男と女

鈴木さんから放たれるひりひりした自分語りを受けて、上野さんはまるで「親戚のおばさん」のように、鈴木さんを「母による呪縛」と「AV女優という肩書き」から引き剝がそうとする

そういう当事者性は一度書けば終わりです。
(p188)
新しい対象と文体に挑戦してごらんなさい。
(p217)

よく考えたら、上野さんは1946年生まれ、鈴木さんは1983年生まれ。
ちょうど母と娘か、はたまたおばと姪の関係であってもおかしくない年の差だ。

男性社会である大学において、女性学を追究し、社会に一石を投じて常に物議を醸してきた上野さんは、人生の酸いも甘いも嗅ぎ分けた人間がそなえる説得力がある。社会学という、自分も含む多くの他者が連綿と積み上げてきた理論的支柱を盾に、読者が(人間が)どんな言葉に共感し、納得し、感動できるかを熟知した人間力と、卓越なる文章力がある。

しかし、上野さんが豊饒な愛の世界にいざない、その役を引き剝がそうとすればするほど、鈴木さんは半ば同意してなびく素振りを見せながら、元の役割を強化せざるえない。

上野さんは、なぜ男に絶望せずにいられるのですか?

ずっと苦しめられている原風景から彼女は逃れることができないと、上野さんに何度も問いつづける。(むろん、意図的にそう仕組んでいるようにもみえるし、そう思い込もうとしているようにもみえる。)

たしかに、恋も愛もわからぬ思春期に、恋も愛も飛び越えてブルセラショップで自分の下着を被った男性の自慰行為をミラーガラスの反対から見せられたとなれば、男とは自分にはまったく理解のできない恐ろしいもの、また逆に女を永遠に理解はしてくれないだろうものと感じてしまうのは仕方がないことなのかもしれない。

この圧倒的な性差による恐怖を「どうしようもないもの」「絶望的なもの」と言語化することで自己を守っているともいえる。

しかし、同時にわたしたち女もまた「どうしようもないもの」「絶望的なもの」であるのではないか。

上野さんは言う。

「男なんて」「女なんて」というのは、「人間なんて」と言うのと同じくらい、冒涜的だからです。人間は卑劣で狡猾でもありますが、高邁で崇高でもあります。
(p260)

そう、男と女に分け、それぞれ相手を断罪しあうということは、人間そのものを冒涜しているということだ。

ひとつの例を挙げると、長らく女性たちは、常に女性が主人公の少女漫画で「結婚」をゴールとして(スタートではない)、甘い「恋愛」を夢見てきた。一方で、男性たちは、いわゆるスポーツや冒険ものでの勝利(仕事での成功)のおまけに、自分を支えてくれる女性がくっついてきた。

男女ともに異性に対して「双方勝手な文脈」(p146)を与えられ、それらを恋愛や結婚の場にもちよっているのだから、わかりあえないのは当然に思える。上野さんが「同床異夢」(p168)という言葉を用いているのはまさに当を得たりと膝を打った。

この「同床異夢」の「夢」を同じくするために「子」があることは多い。「子は鎹」とは、昔の人はよくいったものだ。しかし「子」が鎹とはならず、むしろその教育方針などが原因で別れることだってあるだろう。だから「子」だけが「夢」になるわけではなく、「夢」は多様であってよいし、複数あってもよいし、「夢」が変わってしまおうと、双方が存在することを助けあい、認めあえれば関係は成立すると思われる。現実にそのようなカップルは多数存在する。

また、たとえ元の「夢」が違っても、ぶつかりあいとともに、相手が存在することに自己の存在意義が見出されるものなのではないかとも思う。軌道修正に長い時間がかかったとしても、だ。

(5)「性」をめぐる「夢」の暴走

しかし、「子」や「キャリア」などといったもの以上に問題であり、もっとも重要であるのが、「性交渉できるかどうか」という話である。一夫一婦制(モノガミー)であれば、結婚とは「生涯を通じて唯一性交渉できる相手をもつこと」であり、愛の結実のみを結婚というのではなく、必ずそこには「性」が付随してくる。

ここで唐突に、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を引用しよう。

人間の眠りを研究していた一人の同僚(…中略…)によると、いかなる夢を見ても勃起すると主張していた。つまり、勃起と裸の女の組み合わせは、創造者が男の頭の中に時間の機構をセットすることのできる数多くの方法の一つにすぎないのである。(…中略…)
愛を性と結びつけるということは、創造者のもっとも風変わりな思いつきの一つであった。(…中略…)
愛と性というばかばかしいものから守る唯一の方法はわれわれの頭の中の時計を違ったふうにセットして、ツバメの姿で興奮するということであろう。
(p302 )

この小説によれば、ツバメであれ、鉛筆であれ、男性はいかなるモチーフでも性的興奮を覚えることが可能であり、女性の裸もそのモチーフの一つにすぎない。また女性もツバメをみたら興奮のスイッチが入るのならどうだろうか。お互いがツバメを見て性欲を解消できるのであり、「性」と「愛」は別々に扱われることになる。

もちろん、「愛」は恋人なり配偶者に向けられ、「性」は別の相手に向けるということも可能ではあるだろう。しかし、性の対象であるがゆえにそこに愛を確認できる、と考えることのほうが現代社会では一般的である。

そして、あいにく一般的な男性はツバメではなく、女性の体をみて興奮し、性の対象としてみるため、女性が男性のつがいとして愛の対象であるためには性の対象でもなければならない

かくして女性は身体を見られる。自分の努力によって多少は自分の身体を加工・修正することが可能だが、大きな手術を受けない限り、根本的には変えられない。自分の意志の及ばないところで評価される。また、女性たちの気持ちや快感などは無視して、女性の与り知らぬところで、AVなどのメディアのつくりだしたイメージが流布し、ありえもしない男性たちの「夢」が再生産されてきた。

その「夢」が女性にも内面化されているのは否定しないし、その内面化が性的興奮を発動することも否定しないが、当事者の気持ちが無視された、現実にそぐわない、いきすぎた「夢」に私的領域で長期につき合うのはしんどい

一方で、メディアの影響などによって女性も多少は男性の身体を品定めしてきたし、長らく「性」抜きの「愛」のイメージを男性に求めてきた傾向がある。女性側から能動的に「性」の具体的なイメージが提示されてきたかどうかも怪しい。

最近は、ずいぶんそういう雑誌やWEBメディアも増えてきたようだが、私的な空間で女性側から提案するってどのくらいあるのだろうか。そもそも男性のメディアイメージ先行の誤った行いでセックスは嫌なもの、早く終わってほしいものと思っていたり(昔の女性は、夜の「おつとめ」などと言っていたひともいるそうだ)、嫌われやしないかという不安や恥ずかしさでなかなか提案できなかったりするひとも多いのではないだろうか。

これはこれで、男性からしたら察するのが難しい、頭を悩ます問題だろう。「性」抜きの結婚のイメージを押し付けられて「ひどいな」と絶望することもあるかもしれない。

男女で与えられてきた「性」に対するイメージがずいぶん違っていれば、かみ合わないのも当然だ。双方、相手が描いているイメージを酷で忌まわしいものと思うだろう。

(6)「夢」は「卑劣」でもあり、なくなりもしない


ただ、ここでまた上野さんの真を衝いた言葉を引用しよう。

人間の卑劣さや嗜虐性、優越感や嫉妬心などをなくすることは不可能でしょう。
(p293)

そう、卑劣さを代表する人間のネガティブな感情はなくすことができない。

卑劣さや嗜虐性とは非人道的で残酷なもの、優越感や嫉妬心は他者と比較したときに自己が優位にいるか劣位にいるかで生じるものだ。

前者は、人間が目の前の「社会」という時間的・空間的な枠組みから自己をいったん外し、世俗をこえて対象を完全にコントロールしたいという逃避願望や支配欲からやってくるものである。

後者は逆に、「社会」の内に身を置いた自己が、そのなかでどの位置にあるのかを認識した結果やってくるものである。

どちらも目の前の「社会」という枠組みが「基準」となっており、基準の外に出て過剰性を求めるか、基準の内にいて優劣という過剰性に反応するかの違いだけで、これらの感情は同根のように思える。

つまり、自分の目に映る「社会」という「基準」にひとの意識は向きやすく、ここから過剰なものをつくり出して、心の平静を保とうとする。これは人間の護身(心)術のようなものではないか。

一見ポジティブとも思える「夢」や「希望」をもつこともまた同根だろう。現実の「社会」からみたら過剰であり、生きるための護身(心)術である。

振り返れば、私自身の「夢」や「希望」も過剰であり続けてきたと思う。「こういう職業につきたい」「こういう生活がしたい」という想いだけが先走り、現実がそれに沿っているかというとそうではない。ただ、想いだけは常に持ち続けており、それに伴って形成される志向性/嗜好性、行動様式は、他者から見たら異常に見えるかもしれない。

ただ、異常といえども人間が生きようとするときに「夢」や「希望」といったものがなければ、厳しい現実を生きるのは困難である。

つまり、お互いが信じてきた文脈や思想、見(せられ)てきた夢が、相手にとってはご無体なことであり、卑劣であることは十分にあり得る

そこを時間をかけてすり合わせ、いつか双方とも納得するかたちで乗り越えていくのが、人間の営みというものだろう。

その点、「フェミニズム」という片側だけからの主張はしっくりこない人も多かろう。女性の不自由を声高に叫ぶには、男性の不自由についてもセットで考えなくてはならないからだ。

男性学の入門書としては、『現代思想2019年2月号 特集=「男性学」の現在――〈男〉というジェンダーのゆくえ』や『女性学・男性学』などをはじめとする、大阪大学名誉教授・京都大学名誉教授の伊藤公雄さんの本からおすすめする。

今までのフェミニズムについて、上野さんは次のようにも語っている。

「男女平等」とか「『半分こ』イズム」のようなタテマエを生きたかもしれませんね。そもそも公領域における構造がまったく変わらないのに、私領域でだけタテマエを実践しようとすれば、女も男もお互いを追いつめあってズタボロになるのは目に見えています。
(p314)

先の「夢」とは、上野さんのいう「タテマエ」とも言い換えられるかもしれない。公的な全体構造が変わっていなければ、それは私的にかなえようと思っても実現不可能である。

だから結局は「ゲンジツ」を見て、ぴったり半分こではなく、多少の凹凸を抱えながら、どの地点だと居心地がよいのかを探りあてていくしかない

(7)「許す」から始まる


その作業には、ときにぶつかり合いも生じるだろう。その折に「フェミニズム」という言葉を、生きづらい女性たちが自分たちのセーフティー・ネット、隠れ蓑にしたい気持ちもよくわかる。鈴木さんもFRAUのインタビューで次のように答えていた。

生きやすい時や楽しい時に無理にフェミニズムを意識する必要はないと思います。でも、かつて信じていなかったからといって、私のように若さという資本を謳歌して消費した女性たちが、そのまま距離を感じ続ける必要もない。かつて自分を生きやすく楽しくしていた武器が使えなくなった時に寄り掛かれるものであってもいいのではないかと。
※このインタビュー記事は、インタビュアーがうまく鈴木さんの考えを引き出し、上野さん相手の『往復書簡 限界から始まる』には書けなかったことが展開されているように思う。
本書に書かれた鈴木涼美そのひとの文体では伝わらないことが、端的にまとめられている。
(2021.08.23 FRAUより)

新しい概念、新しい言葉によって、人は救済されることがある。だから、ひとつのムーブメントが誰かの心の拠りどころとなること自体に善し悪しの判断は下せない。有史以降、常にみられた現象であったのだから、これは人間社会のひとつの真だ。

大切なのはムーブメントがある種の完成をみせ、何らかの制度が設けられ、構造が変わった後に、運動の当事者であったり、その次の世代であったりの身のこなし方、生き方をどうするか、である。

社会の「構造」がある日突然ガラッと変わることはほばない。しかし、前の世代が「こうありたい」と夢見て仕込んできたことが、次の世代が大人になるころに当然の「構造」となっていることは珍しくない。そして、一度構造化されると、そこから抜け出ることは困難になってくる。

その「構造」は、次世代が「主体」的に選んだわけではなく、どちらかというと成り行きで受け取ったものだ。たとえば、男女雇用機会均等法が公布•施行され、女性の社会進出が当たり前となった時代に、仕事も家事も育児も女性がやるという「構造」は、わたしたちが望んだことか? 現在は働き方改革によって労務時間管理が厳しくなっているが、高度経済成長期の24時間戦う精神論が残り、以前と変わらず仕事の量が減らないのなら、家事を教わらなかった男性たちは仕事の合間に家事ができるか?

親やさらに前の世代の苦しみの発露とも、エゴともいえる「構造化」に、どう向き合うか。

全員が考えて、話して、聞いて、試して、考えて、話して、聞いて、試して……を、繰り返しやっていくしかない。抗ったりおもねったりして少しずつ掴んでいくしかない。

なんて面倒くさくて、気の遠くなることだろうか。そんなことをしているうちに死ぬんだろう。則天去私の境地に立てる日がくるのなら、むしろ恵まれている。そしてさらに次の世代は、そのわれらの苦しみの発露、エゴを受け取るんだろう。

つまり、誰ひとりとして、自分の思い通りに生まれてきたわけでも、生きてきたわけでもなく、なんらかの「構造」のなかに生まれてきたし、そのなかでまた内外の圧力に耐え、なんとか生きようとしてきただけだ。

だから、前の世代が汗や涙、ときに血を流しながら勝ちとってきたものを一旦は受け取り、「許す」ことから始める

鈴木さんでいえば、言葉の世界から逃さなかった母であり、人間の卑劣さを見せつけた男であろう。
耐えがたい構造下にいる自分であろう。

自他を許したとき、勝手に設けてきた「限界」というバイアスが崩れ、新しい何かがうまれる局面がやってくる。もちろんこれには時間がかかる。でも、諦めてはいけない

……以上が、二人の書簡から、わたしが得たものだ。

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