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ドイツの戦後教育

 ドイツの子供たちは、ナチス時代の歴史について学校で徹底的に学ばなくてはなりません。州によって授業のコマ数に多少の差はありますが、ナチズムとホロコーストについての学習は授業カリキュラムの中心的な構成要素となっていることは共通しています。それでは、ベルリンの学校を例にして見てみましょう。

 まず小学校では、子供の人権、差別、多様性について学び、討論し、後に始まるナチズムに関する授業の準備を始めます。歴史の授業でナチズムについて学ぶのは9年生(日本の中三)で、テーマは「ナチス政権の成立」「全体主義とは」「ナチスイデオロギー」「政府プロパガンダ」「迫害された人々」「第二次世界大戦」「ホロコースト」となっています。補助的に教科書も使いますが、思考と議論に重きを置いているため、要点が書かれたプリントが用意されます。また、グループに分かれてアーカイブを使って調査をさせ、発表のあとに討論が行われます。授業の一環としてザクセンハウゼン強制収容所を見学し、それとは別に希望者はポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所の見学をすることも可能です。ベルリン市はその際の交通費、宿泊代の半分を負担しますが、州によっては全額負担するところもあります。

 歴史以外のナチズム関連の授業として、8年生は社会科で「人権を脅かすもの」、9年生と10年生では、生物と倫理学が連携して「優生学と倫理」、芸術「ナチスが禁止した退廃芸術」、音楽「プロパガンダと音楽」、政治学「民主主義」「人権」「ドイツ基本法」、社会科「ファシズムと反体制派」「国際社会」、ドイツ語「多文化の文学」などがあります。

 また、政府が開催する「現代史教育フォーラム」では教師とジャーナリストもナチズムに関する勉強会に参加できます。これは年に20ほどの様々なプロジェクト、例えば歴史研究家の説明を受けながらのナチス関連施設の見学、ユダヤ博物館での勉強会などが提供されます。ベルリンでは年間500名ほどが参加しており、参加費は無料です。

 徹底した歴史教育は素晴らしいと思われるかもしれませんが、実はここまで来るには紆余曲折を経ています。戦後しばらくの間、学校ではユダヤ人迫害についてほとんど教えていなかったと聞けば驚かれるでしょう。それではドイツはどのような経過を経て、負の歴史と向き合うようになったのでしょう。 

 1945年にドイツは無条件降伏をすると、連合国はニュルンベルク裁判で約一年間かけてドイツの戦争犯罪を裁きました。ナチスドイツの残虐行為が明らかになるにつれてドイツは世界中から非難されていくのですが、一般のドイツ人にとっては「それどころではない」状況でした。大都市のほとんどは空襲によって廃墟と化し、水道も電気も使えず、食べることに精一杯、夫や息子は戦死、もしくはいまだに捕虜収容所から戻っていません。食糧も石炭も薪も不足しているのに、かつてドイツ領だった東部からは故郷を追われた難民が町に溢れています。唯一の喜びと言えば、もう空襲警報に叩き起こされることもなく、夜通し眠れることくらいでした。 ドイツは米英仏ソの4カ国に分割統治され、 連合国はドイツの民主化、非軍事化、非ナチ化教育の方針を決定します。特にアメリカとイギリスはナチスイデオロギー払拭の再教育に熱心で、ナチスの強制収容所解放時の死体の山や痩せ細った被収容者たちの記録映画を市民に見せて反省を促すのですが、彼らは反省するどころか拒絶反応を示し、無視しようとしました。当時は「我々はヒトラーに騙された被害者であり、加害者ではない」という認識が優勢で、 非ナチ化教育は戦勝国の身勝手な押しつけでしかなく、「ナチスからの解放」と喜ぶ人はごくわずかでした。また、「ユダヤ人が収容所で殺されていたなんて知らなかった」と主張したのは、決してしらを切っていたわけではありません。大量殺戮が組織的に行われていたのはアウシュヴィッツを始めとする6つの絶滅収容所で、すべてポーランドに存在しましたから、一般市民が知らなかったことは嘘ではありませんでした。しかし、ユダヤ人が差別、迫害、追放されたことは当然知っていましたし、国民のほとんどがヒトラーに熱狂し、 多くが親衛隊やゲシュタポに協力的だったことは否定できません。

 1949年、ソ連の占領地域は社会主義を標榜するドイツ民主共和国 (東ドイツ)となってドイツはふたつに分断されました。西ドイツの人々にとって、ナチス時代の話は「もうたくさん」であり、それどころかナチス政府に抵抗した人々はいまだに裏切り者扱いされたままでした。1953年初めに実施されたアンケート調査「1944年のドイツ将校たちによるヒトラー暗殺未遂事件をどう思うか」では、評価されるべきと答えたのは39%、評価するべきではないと答えたのは30%、興味なしは31%となっています。

 しかし、1953年6月に小さな変化が起こります。東ドイツ政府の打ち出したノルマ未達成者の賃金カットに怒った労働者が東ベルリンで抗議デモを行い、駐留していたソ連軍が戦車を出して暴動となり、55人以上が殺害されたのです。西ドイツはこの報を受けて、民主主義のために闘った勇気ある東ドイツ人を褒め称え、犠牲者を悼んだのですが、このことが西ドイツ人にひとつの問いを投げかけます。「民主主義のために闘った人々が、かつていたはずではないか?」こうしてシュタウフェンベルク、ゾフィー・ショル、ボンヘッファーなどナチスに抵抗した人々を見直す空気が少しずつ生まれていきました。

 1963年にフランクフルトで始まったアウシュヴィッツ裁判では、ホロコースト、特にアウシュヴィッツ強制収容所における親衛隊看守たちの罪が20ヶ月にわたって問われることとなります。若者たちはこの裁判を通して、両親に「なぜナチスに共感したのか」を問い詰め始めたのです。これは「世代間の対立の時代」とも呼ばれています。

 1968年になると西ドイツでは学生運動が盛んになり(68運動)、何千人もの若者たちが街に繰り出して、ベトナム戦争、古臭い性道徳、ナチスとの折り合いの悪さに抗議しました。つまり、親たちがナチスの過去と向き合おうとせず、当時の価値観を捨てないことに怒りをあらわにしたのです。「すべてのドイツ人はヒトラーの共犯者だ。知らぬ存ぜぬで通せるわけがない」ナチスに関与していた大学教授が職を追われることもなく大学に居続けることにも、学生たちは憤懣をぶつけていました。

1968年ボンの学生運動

 同年11月 、ベルリンで開かれたCDU党大会でベアテ・クラルスフェルトという29歳の女性ジャーナリストが当時の首相クルト・ゲオルク・キージンガーを平手打ちする事件が起きます。クラルスフェルトが「キージンガーの罪を世界に知らしめるために行った」と釈明すると、ドイツのマスコミが殺到しました。クラルスフェルトの夫はユダヤ系フランス人で、夫の親族がナチスに殺害されたことから、一般にはあまり知られていなかったキージンガーのナチス時代の過去に注目させようとしたのです。確かにキージンガーはナチス外務省ラジオ宣伝部に勤務していたのですが、反ユダヤ主義には反対の立場であったことが当時の記録からわかっています。また、連邦大統領、ハインリヒ・リュプケもナチスの軍需省建設部長として強制収容所の設計に携わっていたことを雑誌『シュテルン』がスクープし、辞任に追い込まれます。

 当時の若者たちはヒステリックで過激だと批判されましたが、ドイツの戦後教育において重要な役割を果たしたことは間違いないでしょう。なぜなら、70年代に入ると学校の歴史教科書のユダヤ人迫害についての記述ページ数が急激に増えていったからです。それでもユダヤ人虐殺はヒトラー、ナチスの独断であるかのような論調で、一般人の関与についてはうやむや、責任や反省についての積極的な記述はありませんでした。

 ところが、1979年に放映されたアメリカのテレビ映画シリーズ「ホロコースト」が、ドイツ人の意識を大きく変えることになります。これはホロコーストに巻き込まれていくドイツのユダヤ人一家の悲劇を描いたドラマで、西ドイツで放送されることが発表されると、放送を阻止しようとする右翼過激派がテレビ局の送信所を爆破しました。これが戦後ドイツにおける最初の右派によるテロです。しかし、番組は予定通り放送され、四日間にわたって2000万人(西ドイツ人口の三分の一)以上の視聴者を震撼させました。この影響力は凄まじく、連邦議会でも取り上げられると、決まりかけていた殺人の時効は撤廃されてナチス犯罪の追及は永久的に続くこととなり、教育庁はナショナリズムと反ユダヤ主義をテーマにしたパンフレットを何十万部も印刷し、歴史教科書の論調も明らかに変わっていきました。この時からドイツでもナチスの「ユダヤ人問題の最終的解決」を「ホロコースト」と呼ぶようになり、メディアでは毎日熱い議論が交わされ、ホロコーストについて頻繁に語られるようになりました。政治学者のペーター・ライヒェル氏は、「このテレビシリーズは西ドイツの精神史における一里塚となった。ナチス時代の過去と向き合おうとする大衆の意思が確立されたのだ」と述べています。 80年代に入ると、「ナチスだけではなく庶民も共犯者であり、責任を負う必要があるのだ」と、過去と向き合おうとする気運が高まっていき、それと同時にドイツ全国にナチス関連の記念碑の設置が急増していきます。

 そして1985年、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元連邦大統領は、ドイツ降伏40周年記念式典において伝説的な演説をしました。「過去は克服できるものではなく、なかったことには出来ません」「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、再びそうした危険に陥りやすいのです」「いかなる人間にとっても、いかなる国においても、道徳に究極の完成はありえません。私たちは人間として学んできましたが、今後も人間としての危険にさらされ続けるでしょう。しかし、私たちには常にこうした危険を乗り越えていくだけの力が備わっているのです」ヴァイツゼッカーの演説は「ドイツ史における偉大な瞬間」と呼ばれ、学校の教科書にも掲載されています。

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元連邦大統領

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