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グリュンシュパンの謎

 11月9日はナチスドイツによる本格的なユダヤ人迫害が始まった『11月ポグロム(ユダヤ人に対して行なわれた迫害行為)』の日として、ドイツ全国で毎年、追悼式典が執り行われます。日本では『水晶の夜』の名称で知られていますが、現在ドイツでは『11月ポグロム 』の名称を使用することが一般的になっています。「水晶のような美しい輝き」は、ナチスの残虐性には合わないからです。

 1938年11月9日の晩から翌日未明にかけて、ドイツとオーストリア(同年3月よりドイツに併合)の1400以上のシナゴーグ、ユダヤ人の経営する7,500軒の商店、267軒の集会場と祈祷室、住居、墓地が破壊されました。これが『水晶の夜』と呼ばれたのは、 路上に散らばったショーウィンドーのガラスの破片が月光に照らされてキラキラと輝いていたからです。この日だけで 1,300人を超えるユダヤ人が殺害され、少なくとも300人が自ら命を絶ちました。翌日には約3万人のユダヤ人成人男性が強制収容所に収容され、帰宅するには不動産を含む財産放棄に合意する書面に署名をしなければならず、それを拒んだ数百人が拷問の後に殺害されました。この『11月ポグロム』が人類史上最も残虐な国家によるユダヤ人迫害、ホロコーストの幕開けとなったのです。

 反ユダヤ主義はナチス時代に生まれたわけではありません。中世以前からユダヤ教徒は異端者としてキリスト教徒から迫害を受けていましたが、特に十字軍遠征の時代(11世紀末から13世紀)以降、ユダヤ教徒に対する弾圧は拡大していきました。中世ヨーロッパではユダヤ人は土地を持つことが許されず、ギルド(商工業者の同業者組合)からも締め出されていたため、製造業にも農業にも携われることが出来ませんでした。しかし、キリスト教会は信者に高利貸し業を禁じていたため、ユダヤ人には金融業で生きる道が残されていました。ちなみに金利率は教会と領主に決定権がありましたから、ユダヤ人が欲深と言われる筋合いはなかったのです。 

 第一次世界大戦敗戦と共に誕生したワイマール共和国において、ユダヤ人は初めて平等な法的権利を得ることができました。たちまち科学、哲学、文化、芸術の分野でも頭角を現し始め、当時のドイツのユダヤ人は約50万人と全人口の0.8%に過ぎなかったのにもかかわらず、大学教授や研究者など学者の多くがユダヤ人でした。このことも反ユダヤ主義者にはおもしろくなかったようです。「敗戦の原因はユダヤ人の裏切り」であり、ヴェルサイユ条約が命じる膨大な賠償金支払いがもたらした経済的困窮も「すべてはユダヤ人の策略」であるという陰謀論もユダヤ人を苦しめました。1922年にはユダヤ人のヴァルター・ラテーナウがドイツの外務大臣に任命されましたが、その数ヵ月後には反ユダヤ主義のドイツ民族主義者によって暗殺されていますし、23年のハイパーインフレの際にはベルリンのユダヤ人街が襲撃されています。この頃、迫害を恐れたユダヤ人の中にはキリスト教に改宗する者、ドイツ人(アーリア人)との結婚をする者も増えましたが、それでも自分たちは忠実な愛国者であり、ドイツ人としての誇りを持っていました。何より自分たちはドイツ経済に多大な貢献をしているのだから、追放されることはないと考えていたのです。

 ワイマール共和国時代の全盛期は世界恐慌までのわずか数年でした。失業率は1929年の8.5%から32年には29.9%にまで上昇し、失業者は600万人にものぼりました。職業斡旋所とスープの無料配給所の前には毎日、痩せて疲れた人々の長い列が出来ました。空腹と絶望はやがて政府への怒りとなり、ナショナリズムが勃興します。

 こうして1933年に現れた「救世主」がアドルフ・ヒトラーです。ヒトラーが政権を掌握することで、反ユダヤ主義がドイツの公式な政策とイデオロギーとなったのです。ナチス政権下でワイマール憲法は無視されて新しい法律が次々と生まれ、ユダヤ人は公職追放となり、ユダヤ系企業はアーリア化されてタダ同然の価格で強制的に売り渡されていきます。外国に亡命するにはビザが必要ですが、彼らを受け入れてくれる国はほとんどありません。

 1938年10月9日、ポーランド政府は政令を出し、5年以上国外に住み、特別なビザを取得していないすべてのポーランド人のパスポートは10月30日をもって失効すると発表しました。つまり、ポーランド政府はナチスの迫害を逃れてポーランドに帰ろうとするポーランド系ユダヤ人の受け入れを拒否したのです。ドイツ政府は10月26日、ポーランド政府に対し、「無国籍者の帰還を保証しなければ直ちに追放する」と最後通告を行い、翌日にはすべての該当者を逮捕するようゲシュタポに命じました。10月29日の夜、1万7000人のポーランド系ユダヤ人は家から連れ出され、強制的に列車やトラックに乗せられて、ドイツとポーランドの国境の宿泊施設も店もない見知らぬ土地に置き去りにされたのです。ポーランドの国境警備隊は銃を突きつけて渡らせることを拒否し、ドイツ側も彼らの帰還を拒み、ユダヤ人は過密状態の無人駅で何日も飲まず食わずでポーランド当局が通過させてくれるのを待ち続けました。

 11月3日、パリに住む17歳のポーランド系ユダヤ人、ヘルシェル・グリュンシュパン は姉からの手紙で自分の家族が国境に追放されたことを知ります。彼はナチス政府の蛮行を世界に知らしめるため、拳銃を手に入れるとパリのドイツ大使館に入り、そこにいた書記官 エルンスト・フォム・ラートを射殺しました。

 この暗殺事件をヒトラーとゲッベルスは歓迎しました。ユダヤ人の財産を没収したのち、国外に追放する大義名分が与えられたからです。報道統制下にあるドイツ報道機関は、ラジオ、新聞で暗殺事件をこう伝えました。「我々はこの暗殺事件から結論を導き出すことができる。国内では何十万人ものユダヤ人がショッピングを楽しみ、娯楽施設に入り浸り、外国人のくせに家主としてドイツ人から家賃を巻き上げている間、外国では同じユダヤ人がドイツ人の役人を殺害しているのだ。我々はユダヤ人に対し、新たな姿勢を示さなければならないだろう」

 こうして SA(ナチス突撃隊)とSS(ナチス親衛隊)のメンバー によるユダヤ人襲撃『11月9日ポグロム』が発令されたのです。政府は「これは罪のないドイツ人が殺害されたことへの民衆の怒りである」ことを強調しました。

 ところで今年はフォム・ラートを暗殺したユダヤ人グリュンシュパンの生誕100周年にあたり、ドイツでは彼についてのドキュメンタリー番組が頻繁に放送されています。最近までグリュンシュパンの暗殺の動機は「ナチスの蛮行を世に知らしめるため」と言われてきましたが、最近の歴史家の調査で、動機は異なる可能性が高いといわれています。

 犠牲となったドイツ人外交官のフォム・ラートはナチス党員ではありましたが、ナチスのイデオロギーには懐疑的でした。一時期カルカッタのドイツ総領事館に勤務していましたが、病気のためドイツに帰国しています。残された診断書には直腸淋病とあり、おそらく同性愛者であったため、性行為で感染した可能性が高いとされています。なぜならドイツ人医師ではなく、当時禁じられていたユダヤ人医師による診療を秘密裏に受けていたからです。ナチス政府は同性愛を禁止しており、医師にはその疑いのある患者を政府に報告する義務がありましたが、ユダヤ人医師はドイツ医師会から締め出されていたため、その報告の義務を有しませんでした。また、グリュンシュパン自身も尋問で「フォム・ラートと同性愛の関係にあった」と答えているため、フォム・ラートを撃ったのは別の動機があった可能性があります。

 もうひとつ、大きな謎があります。フォム・ラートは撃たれた直後、重傷ではありましたが命に別状はありませんでした。ところがナチス政府はヒトラーの専属医であるカール・ブラントと看護師をパリに派遣し、フランス人の医師や看護師を病室から追い出して治療をまかせるように伝えたといいます。当時のフランス人看護師は、「フォム・ラートは快方に向かっており、生命の危機は脱していました。それなのにブラウン医師が到着して容体は急激に悪化し、死んだと聞いて私たちはとても驚いたのです」と話しています。

 その後、グリュンシュパンは強制収容所から刑務所に収監され、そこで殺害されたであろうと言われていましたが、その記録は残っていません。ホロコーストを生き延びた彼の両親と兄弟は何十年も彼を探し続けましたが、結局消息はつかめず、1960年にグリュンシュパンの死亡が公式に発表されました。

 ところが、数年前に雑誌『フォーカス』がウィーンのユダヤ博物館に保管されている1946年7月に撮影された写真の中から、「グリュンシュパンにそっくりな人物」を発見したのです。あらゆる写真技術を使って骨格などを検証した結果、ほぼ間違いなくグリュンシュパンであると発表されました。本当に彼なのか。なぜナチスによって死刑とならなかったのか。ホロコーストを生き延びていたのなら、なぜ家族に連絡しなかったのか。グリュンシュパンについての謎は深まるばかりです。

11月ポグロムで放火されたシナゴーグ
フォム・ラートの国葬の様子


逮捕直後のグリュンシュパン


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