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自己否定力をかける(SJ)

全く受け入れられないような突飛な考えや事象に出会った時あなたはどうしますか?

パラダイムシフトという言葉に馴染みのある方は多いと思う。

既存の「枠組み」=価値観、世界観、思想、認識といったものが覆されること、とざっくりここでは言うことにしたい。

分かりやすい例は、天動説を地動説が覆したことだろう。

子どもとプラレールで遊んでいる時、最初の頃は一本のループを作ってみせて、そこから少し複雑にしていき分岐路を作ったりしていると、気づいたら壊されている。わざとかと思うくらい、必ず作った線路は時間が経つと壊されていた。最初は折角作ったのに、壊すなんて勿体ない、とか少し嫌な気持ちになっている自分がいたのだが、それからというもの、子どもが自分で線路を組めるようになってからは、日に日にレール組みが進化していっている。

勝手に私自身はプラレールのある部品だけをうまく使い切ってなるべく大きかったり複雑なレール組みをしようと考えながらやっていて、無理はしない。でも子どもがやると、少しくらいレールが歪んでも、組み上げていくし、どんどん紙コップやらブロックやらいろんなものを使いながら高度なものを作り上げていくのだ。部屋においてあるそれを壊さないようにと思っていても当然兄弟が壊したり、自分で遊んでる時にぶつけて崩してしまったり、思い通りにいかなくて全部壊したりするので、必ず壊れる。

そうするとゼロからになる訳だが、毎回全く違うものが出来上がる。そして使うアイテムも毎回変わっていくし、取り囲む街なみもどんどん複雑になっている。

もちろんすでにある線路のパーツを少し入れ替えたりして改造していく方法だって取れるし、それを積みかさねている訳だが、にっちもさっちもいかなくなった時はすべて一度壊すほうが面白いものが次に作れたりする。

そこには何ら計画なんてないし、緻密な計算なんてない。でも、次にできるものは想像を超えるような何かだったりする。

そういうことを思い浮かべたとき、それって自分の価値観、世界観、認識にも当てはまるのではないかと思う。

積み木遊びを思い出して貰えればと思うが、高く積んでいくには、いかに土台をしっかり積むかが重要になる。逆に、一度しっかり積み上げられたものを壊すのは困難であるともいえる。根幹となる部分を揺さぶり、一つでもブロックを引っこ抜くと、上に作られた構造物は音を立てて崩れ去るかもしれない。大きな衝撃を生むかもしれない。ただし、それは考え方を変えれば、今までとは違う何かを作り出すスペースができたということにもなる。


今まで私たち(と一般化してしまい恐縮だが)は家族、親族、身の回りの人に始まり、いろんな人から刺激を得て、見聞きし、文化を身をもって学び、学校教育を経て、さまざまな媒体で情報を得て、今日に至る。

すべてを遡るなんて到底不可能だが、膨大な情報の蓄積(そしてそれは経験を含む)の上に存在している。子どもの頃なんて疑うことを知らず、スポンジの如く吸収していくだろうし、得た情報を土台として、思考し、経験を経て、さらにさまざまな情報を積み重ねていく。言語化できないような感覚・感性も併せて作り上げられていく。

物事を見聞きする時、私たちは、これまで積み上げた知識や経験を前提として、受け入れられないものを無意識的に排除している可能性を考えなければならない。あるいは意識に止まったとしても、すぐに無かったものとして扱うかもしれない。

そうした(無意識的に振り落とされるものも含む)取捨選択において、捨象されたものには、新しい気づきがもたらされる「何か」もきっと含まれる。

そう考えると、これまで積み上げられたもの、特に根幹となるような土台の部分を崩す可能性をもたらすような「何か」に目を止め、自身の価値観や認識に無批判で照らし合わせることができないものか。

一つの方法としては、これまで当たり前と思っている行動、常識、価値観といったものに対して、本当にそうなのか?という投げかけをしてみることが考えられる。

なかなか急には難しいと思うが、いくつか具体例を出してみようと思う。極端な話も入れてあるのでその点はご容赦いただきたい。

〇結婚・家族
 ほとんどの国では一夫一妻制であることに疑いの余地は無い。しかし、それだけではもちろん無い。文化人類学を少しでもかじったことがある人なら分かるだろうが、家族の形は様々な文化で異なっており、多様である。一夫多妻制、多夫一妻制もあるし、多夫多妻制なんてものもあるだろう。というか夫婦という概念すら無い可能性もある。これを聞いてどう思われるだろうか。「あるとしたって、野蛮で、未発達な民族に違いない」なんて思う方もいるかもしれない。私自身は、自らの目で確かめたことは無いので、どちらが良い悪いといった判断はできない立場を取る。少なくとも、一夫一妻制が唯一の正しいあり方だ、とはとても言えない。大家族から核家族になり、人と人の繋がりが以前より希薄になっているという話は聞いたことがあるだろう。世の中の仕組みが一夫一妻制を前提としているなかでは、なかなかそれと異なる生き方をするというのは容易では無いだろうが、当事者が合意できさえすれば、色んなあり方があっても良いのではないか。

〇お金
 お金の無い生活は考えられない。お金さえあれば困らない。お金が全て。本当にそうか。お金で買えないものなんて無いという人だっているかもしれない。あらゆるものがお金という物差しで数値化されている現代。分かりやすいし、便利だ。しかしどこか寂しい気もする。例えば自分自身が仕事をして対価として給料を貰うという行為は、自らを給与という物差しで評価・数値化されていると考えると、空しい気持ちになる。お金が悪だなんてことは言うつもりはない。お金があればできることが増える。だが、お金を集め増やすことが人生の目的なんて考えたくはない。幸せになるためにはお金が必要、それって本当か。資本主義って何だろう。今後もずっと資本主義が続くだろうか。そもそもお金は必要か。お金のない循環経済圏って作ろうと思えば作れないか。

〇食・体・医学
 〇〇は体に良い。〇〇は体に良くない。健康食品。サプリメント。健康法。次から次へと出てくる情報。科学的に実証された。〇〇%に効果が確認されました、等々。挙げたらキリがないが、こういった情報や、効果を謳う商品で溢れかえっている。もちろん人間食べないと生きていけないし、栄養の偏った食生活は良くないといわれている。でも偏食でも健康な人はいるし、栄養に相当に気を使っていても病気になる人はいる。医療はどうか。風邪をひいたらすぐに医者に行けと言われる。普通の風邪の場合貰えるのは解熱剤、必要に応じて抗生物質、整腸剤くらい。熱が出て辛いと言ったら、医者じゃなくとも解熱剤を飲むように言われるし、言われなくてもそう考えるのではないか。高熱が出るのは、体に侵入した菌やウイルスに対する体の免疫作用によるもの。熱が上がると白血球の機能が促進されたり免疫機能が高まると言われるが、であれば、解熱剤を飲む必要があるのか。無理やり熱を下げてしまったら、菌やウイルスと戦う期間が長引いたりしないか。熱が下がったと言って、すぐに動き出したら症状がぶり返すなんてことだってある。決して薬を飲むなとは言っていない。ただ、人間自身の持つ高度な免疫機能を信じる考え方もあって良いと思う(私は医療従事者ではないので、断言するようなことは書いておらず、あくまで一つの考え方を提示しているに過ぎない)。症状に対して、治療を行うのは対処療法だが、そもそも病気にならないようにする方法は無いか。病は気からと言うが、では気をどう考えるか、扱うか。一気に医療と離れてしまうが、病気を未然に防ぐアプローチだって色々考えられる。精神面のケアももちろん大事だろう。


以上3つ挙げてみた。例としてイマイチだったかもしれないが、ここで言いたかったのは、当たり前と思っていることに対して、否定力を掛けてみると、新しい気づきが得られる可能性がある、ということだ。

長年掛けて構築された価値観・常識・感性等々がどういったものに影響を受けるかを考えると、多くの場合、日常的に触れているメディアから流れてくる情報が挙げられると思う。例えば、テレビを流していて、自然と流れてくるさまざまな情報番組。ニュース。ドラマや映画。

家族観、人間関係、お金、仕事、健康、成功、欲、娯楽、文化、歴史、世界認識。流行、トレンド、ブーム。メディアが私たちの人生のあらゆる側面に影響を与えていることは間違いない。それ自体が悪いとは言わないが、少なくとも影響を受けていることは認識しておく必要があるだろう。例えばニュース番組やバラエティ含む情報番組においてはコメンテーター、評論家と呼ばれる人たちが登場する。専門家、その道の第一人者、教授、作家、役人、経営者、等々。構造としては、権威のある人の話を聞く、教わるといったものと言えるかもしれない。色んな人が情報を発信する訳だが、情報の取捨選択はどのように行われるか。当然だがメディアにはスポンサーがいる。


最初の問いに戻ろう。全く受け入れられないような突飛な考えや事象に出会った時あなたはどうするか。例えば、これまで当たり前で疑いの余地がないと思っていることがあり、それと相反する情報にぶつかったとしたら、どういった行動を取り得るか。自分の価値観・常識が揺さぶられるというのは決して気持ちの良いことではないだろう。

早急に結論を出すべく両方の情報を調べ、納得のいく方を受け入れ、そうでない方を否定するのは一つの手だ。あるいは、そのことに対して造詣が深い人、あるいはこの人の言うことなら信頼できるという人に意見を求めるなんてことも可能かもしれない。

私自身は判断を保留するという方法をここでは提示したい。

調べたらすぐに解決するものであれば苦労しないが、早々に白黒付かないものもあるだろうし、五感で捉えたり、確かめられないものはいくらでもある。その時にどちらも可能性として否定せず情報として保持することは可能だ。性格にもよるだろうが、仮に2つの情報に矛盾があるとして、その両方を保持するというのは、やってみたら分かると思うが、気持ち悪さが残ったり、不安を感じたり、ストレスが掛かる。自分を形作る根幹が揺さぶられることになるとしたら、そう感じるのも無理はない。ついつい学校の勉強のくせで、(一つの決められた)答えを探し導きだしにいく思考が染みついているのかもしれない。目的志向・ゴール志向があって、方向を一つに絞りにいこうとするのもそうだろう。


自分の価値観や常識を意図的に揺さぶるような否定力をかけることは決して気持ちの良いことではないかもしれないが、常に別の見方や考え方の可能性を否定せず、相反する情報すらも判断を保留して保持することで、それらを包摂して、超越していけるような考え方に出会えるかもしれない。めまぐるしく世界は変化を続けており、今日の常識は明日の非常識になり得る。そういったなかで、情報の濁流に身を投じつつも、しなやかな思考は忘れないようにしたいと思う。

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