「しにたいわたし」を抱きしめて生きる。
長いこと、長いこと、
希死念慮さんと共にありました。
何度もしにたいと思いました。
何度もしのうとしました。
その度苦痛でした。
しにたいと思うことも、
そんな心があることも、
そんなわたしがいることも、
全部間違いで醜くて情けなく恥ずかしいことだと思いました。
何度も何度も。
なんでしなないんだ、しにきれないんだ、
そう思ったことも幾度となくありました。
しにたい気持ちは、どうして何度もやってくるんだ。訪れるんだ、わたしの前に。
そんな、命を、愚弄するようなこと、軽んじるようなこと、どうして思うの。考えるの。
何度も何度も責めました。
自分自身で。
もう「しにたい」なんて思いたくない。
考えたくない。
そうしてやっと、
最近、
そんなこと考えなくなったかも知れない、
と、喜んだ瞬間もありました。
だけど本当に長く続きませんでした。
さっと、するっと、やってきました。
慣れ親しんでしまったんですね🙃
「しにたいさん」に。
ならばもういっそ、「受け入れよう」と思いました。
『しにたい気持ちを抱えながら生きるのは矛盾している。』
『しにたいならさっさとしねばいい。』
そう思った時だってもう飽きるほどあった。
っていうか飽きたんです。
そのやりとり。その応酬。
だからもうわたし、
しにたい気持ちになったとしても、
そのわたしごと受け入れて生きていくことにします。
別にしにたいって思ったっていい。
感じたっていい。
考えたっていい。
それはいけないことかも知れない。
それはダメなことかも知れない。
もちろん推奨されるようなものではない。
しにたいなんて、そんなふうに思わない、考えない人生の方が、きっと楽で、平穏だ。
だけどどうしても思ってしまう、
考えてしまうんだからしょうがない。
しにたくなるほど嫌だと、
辛いと、しんどいと、
そう感じる心に、
わたしの心に、自分で唾を吐きかけなくてもいい。
わたし、ダメだと思っていたんです。
わたしの心のあり方に、
ずっとケチをつけていた。
だってみんなと違うもの。
だって健やかな人と違うもの。
比べては、落ち込んで。
健やかじゃなくても、いいじゃない。
心が弱くても、傷つきやすくても、
疲れやすくても、
何度も何度も何度も何度も、
しにたい、と思いながらも
生きてきたことは確か。
そこを見てあげてもいいんじゃないかな、ほんの少しだけでも、評価してあげたって、認めてあげたっていいんじゃないかな、などと思いました。
自分で自分を理解することは、とても難しい。
とかくめんどくさい。
だけれどわたしはわたしを愛せるようになりたいなと思ったから。
もう少し挑んでみるんです。
それさえできれば幸せ。
誰に何を言われても、自分で自分の味方でいられたら最強。
それって本当かしら、って。
自分で実験してみたいんです。
自分嫌いでものすごく自己肯定感の低いわたしだからこそ、わかる効果があるのかも。
今日も明日も何度でも、
何度やってきたとしても、
もう恐れなくてもいい。
「しにたいわたし」を。
闘うことも、なきものにしようとすることもしなくていい。
ただそっと、その子と共にいてあげる。
それをわたしにしてあげたいです。
「しにたいわたし」と共に生きる。
それがわたしの目標です。
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