近松『曾根崎心中』を読む②

1996年の〈慰安婦〉たちの証言集会で、と哲学者大越愛子は語る。(97年9月号の雑誌『現代思想』、高橋哲哉との対談)

彼女たちは「自分たちは〈慰安婦〉ではない。自分たちは日本軍兵士に性的慰安など絶対にしなかった。、彼らは私たちを強姦したのだ」と怒りをこめて主張しました。

大越は日本の性風土には、女性が自らを犠牲にして男の欲望を受け入れ彼を救済するというようなものがあり、大越はそれを「日本的観音コンプレックス」と名づけている。

〈慰安婦〉という呼称もその典型。男性兵士は勝手に自らの欲望を受け止めてくれた女性に慰めや〈慰安〉を見出しているかも知れないけれども、果たして女性はそれを甘んじて許しているのだろうか。

江戸の遊廓も男性の書き手(「吉原細見」などの案内書)や語り手(落語がその代表格)によって遊女たちを勝手に自分たち男に都合の良いように描かれていなかったか。

お初は夜毎、自分は男どもに慰安を与えているのではない、単に強姦されているだけなのだ、と感じていなかっただろうか。

すると徳兵衛との関係も単純に純愛のような、プラトニックラブではなく、お初は他の男たちとの性愛では得られない〈快楽〉を徳兵衛に感じていた、徳兵衛だけがお初に性的な〈快楽〉を与えることができた。

こう想像するなら、「曾根崎心中を読む①」で述べたような関係とは異なる関係性が読み取れ、2人の関係はやはり性的な男女のそれであったとも見ることができよう。

天満屋の段が面白いのは心中を決意するのはお初であり、徳兵衛はお初の足をさすりながら頷くのである。曾根崎心中は終始お初の主導で物語が展開する。映画「曾根崎心中」(宇崎竜堂と梶芽衣子のそれではない)では、心中を決意したお初、恋しい彼女を殺しかねて逡巡する徳兵衛の手を取り自らの首に刃を当てるのであった。https://eiga.com/movie/77087/

余談めくが、石川淳の随筆、題名は失念、確か第9巻だったように記憶する。そこで石川は「お竹観音という言葉持ち出し説明する。江戸は圧倒的に男が多く、ゆえに幕府は「入り鉄砲に出女」といって女性が数の減ることを恐れた。女性の数が少ないから当然男の欲望を受け止める女性が必要になり、町内にはそのような多くの男性の欲望を受け止める娼婦ではない奇特な女性がいたというのだ。

ありそうななさそうな話だが、石川が男であることを鑑みれば、大越の日本的観音コンプレックスの投影と読むことが出来よう。それにしても日本的観音コンプレックスとは実に言い得て妙だ。

さて、話は変わるようだけど、近代の考え方を前近代にそのまま当てはめるのが愚行だとすれば、つまり花魁などの遊女や娼婦が強姦されていたと感じるのが近代的な感覚だとすれば、『罪と罰』のソーニャはどうなのか。

ソーニャも娼婦であり、ラスコーリニコフに〈慰安〉を与え、救済さえする。あたかもロシア的マリアコンプレックスとでも呼ぶべき事態にラスコーリニコフは陥っていないか。

ソーニャが近代人であるなら、元〈慰安婦〉たちと同じように「自分は男どもに慰安を与えているのではない、単に強姦されているのだ」と想像すれば、ラスコーリニコフのソーニャも彼ないしドストエフスキーのソーニャ像もまた違って様相を呈するだろう。

ラスコーリニコフは決してソーニャの仕事に想いを馳せることはない。彼はひたすら事件前はそれが可能か、事件後は果たして隠しおおせるか、とそのことばかりに腐心している自己中心的な若者である。

それが最後にソーニャ(マリアかも)によって救われるなんてあまりにもロシア的キリスト教的マリアコンプレックスそのものではないか。ソーニャは聖母マリアであるから、物語の最後でラスコーリニコフが大地に接吻のが、母なる大地への帰依だと、聖母マリアへと帰依だと読むことが可能かも知れない。

売春婦たる〈穢〉が男を救済する〈浄〉となる。ソーニャという売春婦はアンビバレントな存在として登場している、というよりドストエフスキーなどの近代の男性の妄想的産物ではないかとさえ思えて来る。


見方を変えてみるなら、『精神現象学』のヘーゲルの絶対精神への歩みは、後の「教養小説」におおきな影響を与えた。進化論の援護もあり、男性が得るべきはずの職業と配偶者を獲得することを〈目的〉として突き進む物語。教養小説の主人公はこぞって男性である。ヴィルヘルムマイステル、デミアン、トニオ・クレーガーなどなど。

ここで取り上げたいのは、あくまでmale chauvinismとでも言えそうな男性中心主義、もう一つは予めその結末を知っている物語作者の〈知〉の優越性。「美しい仮面よ、私はお前を知っている」という声が教養小説から聞こえて来ないか。ほら、こうして天職を得て理想の女性を得るんだよという声が。

そしてこの〈知〉の優越性こそ、家父長制を支え植民地化を可能にしたものだというのは既に述べた。教養小説が徹底して隠蔽し無視するのは元〈慰安婦〉たちの先の怒りである。

性産業の女性の中には性愛が何よりも好きだという方もおられるかも知れない。

ただここにクリステヴァのアブジェクシオンを見ることも出来よう。フロイトのエディプス・コンプレックスが男性の教養小説だったとすればクリステヴァのオブジェクシオン理論は女性版教養小説だろうか。惹かれつつ嫌悪する、魅力を感じるがおぞましいもの、という意義と、〈棄却〉の意を持つオブジェクシオン。母親に対するアンビバレントから〈棄却〉を経て一人前の大人(女性)になるという説。

とするなら、ソーニャはこの「棄却」に成功したのか。大人になることに成功したのか?   強姦する男どもの怒り(穢、おぞましいもの)を許し受け入れた(浄化)のか? ラスコーリニコフの視点からするなら、彼を救済することに成功したのだろうけど、ここでは徹底してソーニャの〈内面〉は隠蔽され、そうすることで初めて『罪と罰』という男性の教養小説(超人になりえなかったのを考慮すれば反面教師的な教養小説とでも呼ぶべきか)が成功する。

クリステヴァが明らかにしようとした女性の成長物語は常に既にこうして隠蔽されるのか。或いは隠蔽し無視することで男性の成長発展物語としての教養小説は成功するのか。21世紀になっても、女性の声は抑圧され続けている。

曾根崎心中から遠くに来すぎただろうか? お初徳兵衛の物語テクストにはどのような〈読み〉の可能性があるか? 

この曾根崎心中パート②は、大越愛子の元〈慰安婦〉たちの証言に触発されたものだ。その怒りに応答しようという一つの試みの始まりに過ぎない。私たち(誰のことだろう?)にある〈応答責任〉responsibilityはどのようなものなのか? どうすれば果たせるのだろうか?