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正直なエッセイは一生の宝

先日、とあるエッセイコンテストに応募した。
そして、その受賞作品が主催者のホームページにて順次公開されている。昨日までに佳作が数点。実質的な1位と2位はまだだが、先ほど3位が掲載されていた。

さっそく読んでみる。


ああ、素晴らしい文章だ。

これより上に拙文があるとは思えない。僕は自信を失くした。




・・・自信を失くした、だと?
ということは、失くすだけ自信があったということになる。本当にそうなのだろうか。おい、おれの筋肉!自信はあったのかい、なかったのかい、どっちなんだい!!!

と、筋肉に聞いてもしょうがないか。少し冷静になって考えてみよう。


自信は・・・まったくなかったわけじゃない。
エッセイを生業にしようと思っている身で、まったく自信のない作品を応募するほど愚かなことはない。拙文といいながらも、ていねいに考えて執筆したそれなりの自信作ではある。

しかし、件の3位受賞作品を読んで、その自信は消えてなくなった。
するすると読みやすく、ちゃんとテーマにも沿っている。noteだったらクリエイター紹介をしたいくらい、見事な作品だった。

現時点ではまだ1位と2位が残っているが、自分の作品が残っているとはとても思えない。残ってたとしても、嬉しさ半分、悔しさ半分だろう。いや、悔しさ8割くらいか。とにかく、僕の完敗だ。

ちょいちょいコンテストで賞をもらって、天狗になっていたのかもしれない。これは恥ずかしい。


いや、自信を持つことは恥ずべきことではない。むしろ誇るべきだ。これは、自画自賛とは少し違うと思っている。

自画自賛は、少々盲目的な印象を受ける言葉だ。
「いやー、傑作ができた!おれって天才?ガハハ」
みたいな。

対して自信とは、
「よし、自分で納得のいくものができたぞ」
というイメージ。


そうか。
自分の正直な気持ちを文章にしたから、それが自信になったんだ。
コンテストなので賞や順位はあれど、そもそも「自分はこう書きたい」というものが書けたのだから、それでいい。それは自画自賛ではないし、天狗でもない。
ただ、ほかの作品を読んで「悔しさ」が込み上げただけ。

いや、ちょっと違うな・・・「感動」かな。

僕は感動したのだ。
「素晴らしい作品に出会えてよかった」と思ったのだ。
だから、自信を失くしたのだ。

このことに気づけただけでも、成長したと思える。


エッセイとは、大きな独り言だと思っている。
だから自分の正直な気持ちを書く。ということは、その内容に賛同しない人や共感しない人、不快に思う人もたくさんいるだろう。
そう考えると、賞はおまけみたいなものだ。もちろん、賞金や知名度や実績づくり(富・名声・力)のために応募しているのは間違いない。
しかし、エッセイを書く根底は「読んでくれてありがとう」だ。このことは物書きとしてしっかり肝に銘じておきたい。




今日も読んでくれてありがとうございます。


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