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通り雨の中の私

「申し訳ございません」
 もう何度同じ台詞を繰り返したかわからない。その言葉にもう最初の意味は残っていない。「謝って済むと思ってるのか」その台詞だってもう何度聞いたかわからない。聞いたとしても聞いていない。途中からはもう聞いた振りをしている。僕はここにいる振りをしながらもうここにはいないも同然なのだ。

 何が悪かった? もうあまりに昔のことで思い出せないな。確かなあやまりというのはなかったと思える。ほんの少しの隙があった。そこを突かれてしまった。「申し訳ございません」怒りを鎮めることが肝要だと頭を下げた。下げたことで罪が確定した。そこから男の追及が始まった。謝っても弁解しても出口が見えなくなった。「おいお前! ちゃんとこっちを見ろ!」(なんだその目は!)私の目の中に誠意なんていうものはあるはずもなく、既に私は目の前にある現実を見つめることに疲れ果てていたのです。だから、なるべくなら今ここにある不毛な現実から目を背けて、遠く窓の向こうを眺めていたかったのです。(よかった時代を思い出そう)美味しかったこと、かわいかったこと、喜ばれたこと。そうだ。誰かに頼られたことはなかったか。

「おい! どこ見てるんだ?」
 私にはもう目の自由さえないと言う。「申し訳ございません」もう何度同じ台詞を重ねたことだろう。重ねるほどに台詞は棒読みになっていくようだ。「納得しないぞ」(目が謝っていないからな)ああ……。この時間からどうすれば解放されるのだろう。

「お前! 名前は何だ?」
 いつからここにいるんだ? 何時に帰るんだ? お前と俺の間にできた距離は人と人の間を超えてしまった。俺をお前と言い始めた瞬間から俺にはわかっていたのだ。お前の言葉は俺には響かない。なぜなら、お前はクマだからだ。それにしては実に言葉を巧みに駆使している。その点は驚くべきことだ。拍手してもいい。だが会話にはならない。そこは少し次元が違っている。残念ながらお前はまだそこには及んでいないのだ。理論的ではない。だが、所々で「なるほど」と思わせる文法がなくはない。感心感心。どこで覚えたか知らないがお前は将来有望なクマなんだな。

「おいお前! どこ見てるんだ!」
 俺は客だぞ! 「申し訳ございません」「お前! 心から謝っていないな!」どうしてあなたはすべてを見通してしまうのだろう。私の心はもはやここには存在せず、何かに心を込めることなど不可能なのでした。「お前がこの状況を作り出したんだぞ!」私には何かを生み出したりここにないものを作り出すような才能はないのだから、人違いをされているのでしょうか。去ってほしいのに去ってくれない、逃げ出したいのに逃げ出せない。これはきっと天災のようなものなんだ。

 きっと不条理な人間というのは、雷や台風みたいに発生して、人間の手に負えない困難や苦しみを与える。今がそうなのではないか。僕が悪いのではない。避けようのない出来事というのがある。人間は反撃手段を持たない。反撃すべき相手ではないからだ。僕にできることはただ待つことだ。辛抱強く待つことだ。雨はいつか上がるだろう。大切なのは生きていることだ。僕は今生きている。雨を待つのに言葉いらない。

「お前! 何か言うことはないのか?」 
 ギロリとした目でクマが俺を見る。お前が俺に言葉を望むとはな。お前はまだ語彙が浅い。会話に進むにはまだ早い。クマは落ち着かない様子で俺の反応を待っている。少し背伸びもしてみたいのだろう。
「どこ見てるんだ?」
 俺はクマを見るのも飽きていた。瞬きするとクマは狢になった。「どういうつもりなんだ?」狢がすごんで見せる。もう一度瞬きすると狢は鴉になった。

「おちょくってるのか?」
 鴉が嘴で宙をつついている。さて次は? 瞬きは俺の権利だった。鴉は羊にドラゴンにネズミに切り替わっていった。猫、リス、牛、ライオン、狼、人。あっ! 間違えて人間に戻ってしまった。

「お前が全部悪いんだぞ!」
 男は断固たる口調で私を責めた。みんなみんなお前が悪いんだ! 私はその時、世の中の罪を一人で背負っていました。無抵抗であることがそれを証明しているようで、私の周りには一人の理解者もいなかったのです。「反省するまで終わらないからな!」反省の言葉はとっくに底をついていました。言葉はなく、目は淀み、心は行方不明になったまま、時間だけが虚しく過ぎていくばかりでした。

「わかってるのか? お前が悪いんだぞ! この時間をどうしてくれるんだ?」
 この時間はいったい何のためにあるのだろう……。私は何のために生まれてきたのだろう。延々と責め続けられながら、どうして私はここにいるのだろう。(これは本当に通り雨なのか……)私は顔を上げて店先を見た。黒猫がいつものようにゆっくりと前を横切った。

誰かいなかったかな……。

 私は遠い映像の中で好きだった人のことを思い出した。好きになってくれた人を探した。失われていく時間の中で、私はもう一度自分を見つけ出さなければならなかった。


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