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「第5章 魚に乗って空を飛ぶ人々」アントニオ・タブッキの「レクイエム」で巡るリスボン

主人公が次に向かうのが、「国立古美術館」(Museu Nacional de Arte Antiga)。翻訳本では「国立美術館」となっているが、観光ガイドは「古」が入っている。Arte Antiga なのでこちらが正確と言えるだろう。

1999 年、初めてポルトガルに行く前に「レクイエム」を読んでみたものの、具体的には何なのか、何処なのか、もちろん判るわけのないキーワードが続く中で、唯一具体的に行けそうだと思って実際に出かけた場所がこの「国立古美術館」だった。

当時は、インターネットはすでにあったものの、Google MapやSNSのない世界だ。唯一の頼りは「地球の歩き方」であったり「個人旅行」であったりするのだが、きっちりチェックしていかない(詰めの甘い)旅をいつもしていた。

まず、リスボンの中心部にあるコメルシオ広場から、ベレン方面行きの路面電車に乗ってみる。ふと気が付くと、右手に古美術館らしき建物が見えたが、最寄駅はもっと手前にあったらしく、降りるタイミングを逃してしまう。「あれ?あれかなぁ」と車窓を見ながら通路をウロウロすると、車内のおじさんたちがそんな私を見てワイワイ何か言ってくる。もちろん何を言っているのかわからない。同じようなことを数日後にエヴォラでしてしまうも、助けてくれたのが若い女学生さんで、この時はお互いに最大限の努力をしあって、私は田舎の駅で途方に暮れずに済んだのだった。

おじさんたちは、声は大きいが、まずあまり近寄ってこない。ポルトガルの人って意外にシャイなのかもしれない、と実感する。徒歩で戻ればなんとかなると、とりあえず次の駅で降りた。一人旅の気楽さだ。

二度目(2010 年)に行ったときは、カイス・ド・ソドレ駅からコンボイオ(電車)に乗って「サントス」という駅で降りた。これは美術館の目の前にあるので無駄な徒歩はなかった。

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長い階段を登りきると迎えてくれるのが、花咲き乱れるミモザの大木。心が満たされる一瞬だ。

「レクイエム」のここでのキーワードは、「カフェ」とヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)の「聖アントニウスの誘惑」。

ガイドブックに書かれていたカフェの閉まる時間が迫っていて、必死で向かったのを覚えている。でも着いたときはカフェテリアに行列が出来ていて、まだまだ閉める様子はないことにホッとした。
が、そこは小説に登場したような、人生に疲れたベテランのバーテンダーがいる「バー」ではなく、テージョ川側の開放的なオープンスペースでお茶する、非常に健康的で爽やかな場所だった。確かに、物語の中のバーテンダーは「誰も酒を飲まない」とぼやいてはいたが。

これまでの徒歩による疲労を取るには十分な心地よいスペースだった。川から吹きつける涼風を楽しむ。何を注文したかは覚えていないけれど、少なくとも小説に出てくる「パイナップルスモル」や「緑の窓の夢という名のカクテル」ではなかったのは確かだ。

現在は、スケルトンなカフェができている(写真提供:COC 2017 年6 月)。

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疲れを癒した後は、いよいよヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)の「聖アントニウスの誘惑」に対峙する。

画像3 © José Luiz Bernardes Ribeiro

その絵は、小説で想像していたより遥かに圧倒的に、そして厳かに実在してた。今まで、いろんな美術館に行っていろんな絵を見たが、こんな絵は初めてだった。なんの前知識もなく、この絵の細部が何を意味するのかも当然わからない。なのに、ずるずると絵の中に引きずり込まれて行く。そして、あるパーツに、私は、完全に心を奪われた。

空飛ぶ魚。それにまたがる人々。

既視感、デジャ・ヴュ。
帰国後、少しずつ重なってきたのが、エミール・クストリッツァ監督の「アリゾナドリーム」という映画の中の1 シーンだった。冒頭、空飛ぶ魚が印象的に挿入されている。
クストリッツァ監督はこの絵を見たのだろうか。そんなことをぼんやり思ったのを覚えてる。

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さて、上二枚の写真、本物を撮ったものではない。これはペーパーレプリカ。おそらく2014年にミュージアムショップで買ったお土産である。そして、このお土産を買って、衝撃的な事実が判明した。
なんと裏があったのだ! 3度も行って、あんなに時間かけて舐めるように見たのに気が付かなかったなんて。再び訪れる機会があれば、今度はちゃんと確認しようと思う。

国立古美術館についてネットで色々調べてみたが、この絵は最大の見どころのひとつとは謳われてはいない。そもそもボスはポルトガル人ではない。そしてもちろん他にも素晴らしい所蔵品が数多くある。ゆえに、もしかしたら見逃してしまうことだってあった。それだからこそ、この絵を教えてくれた「レクイエム」との出会いに、いっそう感じるものがある。

さて、「物語」の中では、この絵の前にひとりの模写画家がいて、主人公は、また他者の「物語」の中に身を投じる。画家は、この空飛ぶ魚は「テンチ」という淡水魚だという。彼の故郷では、油に漬けたテンチのリゾットを食べるらしい。

  「消化するのに丸一日かかります。」

主人公は、私が乗ってきたコンボイオに乗って、テージョ川の河口へと向かう。






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