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「SDGS通信」(とちぎボランティアネットワーク発行)市民文庫書評『魂にふれる——大震災と、生きている死者 【増補新版】』 若松英輔著 亜紀書房 

以下の書評は、「SDGs通信」発行前の事前公開です。
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『魂にふれる——大震災と、生きている死者 【増補新版】』 

若松英輔著 亜紀書房 
定価 1870円

評者 白崎一裕(那須里山舎)
 
ーー  死者 たち は、「 課題」 を 残し て い なく なる のでは ない。 死者 は、「 課題」 の なか で、 君たち と共に 生きる、 ひそ やかな 同伴者 に なる。
ーー(本書23ページ)
 
元旦に発災した能登地震、そして羽田の航空機着陸事故。
2024年は、今年も多くの死者の魂が漂っていくことを予感させることから始まってしまった。そんな死者のことを語り続けている若松英輔さんの本である。

若松さんの本は、手元にも何冊かあり、特に内村鑑三のことをいつか書こうと思いながら、資料として書棚においたままになっていた。
その若松さんがお連れ合いを喪った経験があることを知り、ふたたび、きちんと読んでみようとしている。この「喪う」という漢字にしても、本書から教わって知ったぐらいだ。

 私は、絶対の唯物論者を自称して、若松さんが言われる「一人称」の死しか考えていなかったことに気がつく。それも、一人称の死である自分の死は、自分の体験としてはありえないので、多くの他者・他人の死(=三人称の死)を見聞きしたことによる共同幻想としてのものである。こうして「三人称」の死を観念的に考えることで、自分は死のことをわかったつもりになっていた。

しかし、それは、まったくの浅薄な思想だったことを連れ合いの「死」が自分に教えてくれた。つまり、身近な大切な人の「二人称の死」によって、はじめて「死」のことを実感することができたという体たらくなのである。評者は、自分の行動の根本に得体のしれない怒りの感情があることを青年期から自覚していた。おそらく、父親に幼児期に暴力的な扱いをうけてきたPTSDなのだろうと思う。その怒りに身をまかせて、これまでの自分の行動はなされてきたといってよい。このことは、連れ合いにも多くの迷惑をかけた。しかし、彼女を喪ってから二年、怒りの感情が打ち消されて、そこに悲しみの感情が居座ることとなった。連れ合いは、私から怒りの感情を持ち去ってくれ、別の世界へと旅立っていった。そして、その周囲に苦しみの感情もまとわりついている。

冒頭の著者の言葉にあるように、こうして連れ合いという他者は、私の怒りという負の課題を持ち去りつつ私のなかに存在し続けるのかもしれない。
この三年、そして今現在、多くの困難が自分におそいかかり、連れ合いを喪う以前なら、怒りの行動で、周囲の人々に多くの迷惑をかけているかもしれないところだ。しかし、いまは、ただひたすら悲しみの感情のなかで途方にくれている。そして、連れ合いは、かすかに評者の負の課題を解決する契機をもたらしてくれている。そこから立ち上がるしかない。

 能登震災でも、多くの方々が、身近な「二人称の死」のなかに立ち置かれたままになっている。そして、報道はそれぞれの声を「死者〇〇人」という数字にしてしまう。それは報道の性質上無理からぬところがある。しかし、個々の死者の記憶を「二人称の死」のまま遺族のみにとどめておいてよいのかと著者は問う。もちろん、この世には、二人称の存在をもたない多くの単独者の方もいる。だから、「二人称の死」を普遍化することはできない。しかし、この世に「同伴する死者の魂」を忘れてはならないのだ、これが、若松さんの言う、あえて死者の声を「公に議論して」死者を社会から抹殺すべきではない、ということだと自分に何度も言い聞かせている。

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