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心と体 意識とは何だろう その4

間違えて削除してしまったので一部加筆し再度投降の形でアップしました。ちなみに、「いいね」は32でした。「心と体 意識とはなんだろう 3の続編です」

一元論、二元論今後の問題
今もっともこの問題が先鋭化するのは臓器移植を伴う脳死問題だろう。デカルトの主張を理性主義と人問機械論(それゆえ心身二元論)として批判しながら、日本人の理屈が自ら別タイプの二元論的把握に陥いるというのも問題だ。(デカルトの二元論は肉体は単なる精神の入れ物としたが、魂が死者の体に戻ることを願った「殯・もがり」や盆の慣習が 日本古代からの生命観・死者観として魂や肉体の二元性を重要視する観点)

私たちが遠い昔から伝えてきた身体を重視する実在的な心身一元論(心と体は切り離せない一体のものと考える)の立場から、身体を離れた魂(精神)は存在するのか?
死後の世界は存在するのか?と質問すれば、少し理性的な現代人だったら否定的であろう。
しかし日本人が縄文の古代から「こころ」 や「たましい」の独立性・不死性、黄泉の国あの世を信じてきた事実もある。
それはとてもリアルな実在感として理解できるし、私自身それを否定できない。現代でも神道的儀式や仏教の儀式を私は全面的ではないが受け入れているのも事実で、それは死者への慈しみとか鎮魂の感情だからで安易に否定できない。
それは、日本の社会的歴史的な合意でもある。

近年の脳死一臓器移植をめぐる論議の中で、 身体にも独自の生命を認めてきた日本人の伝統的な身体観や死者の遺体を段損することへの抵抗感から臓器提供や献体を躊躇する意識があるのも明らかだ。身体 についてのこうした観念や意識が、古来から日本人の中でどのように形成され、今日それをどう 受けとめたらよいかを国民的合意を目指すべき論議を時代の要請として迫られている。

日本では心身一元論が支配的であったことは前節で述べてきたが、魂と肉体の二元性という観念もかなり根強い。死者の遺体や骨がなんらかの意志や感情をもっという観念。「意志する死骸」と「抜け殻と しての死骸」の両観念をどう統一的にとらえるかが、重要であると識者は問う。

弟の一人息子が若くして事故で亡くなった時は悲しくてつらかった。葬儀では婚約者の泣き声が耳についた。
せめてあの世では幸せに暮らしてもらいたいと甥の来生を祈った。

そのような意識は、信仰的ないし実践的ドグマとして認めてはいる。が、奇跡的ともいえる生命誕生の確率や生物進化の長い歴史があったから、意識が発生し、精神の 形成があり得たのである。

意識や精神の機能・本質が、感覚器官や神経伝導路総合としての中枢神経系を成立させ発展させてきたと説明されれば矢張り納得する私と生命の絶妙な中枢神経系を成立させコントロールする何か偉大な力を神とも仏とも認める私もいるのだ。

最近私の身内に慢性腎臓炎の診断が下った。
根本的治療は腎臓移植しかないと知った。
日本の実情から提供者からの死後移植も至難である。日本では、人口1億2000万人に対して、死後に臓器提供する人は年間100人前後(臓器移植件数は400件程度)となり、アメリカやヨーロッパの諸外国等と比較しても格段に少ないのが現状です。
生体腎移植を望めば我が子しかいないだろうが、危険が伴い身体を傷つけるため提供される本人が拒むだろう。代替治療となる血液透析の負担を考えればできれば避けたいが完治治療は移植しかない。

脳死を死として認めない社会的意識が臓器移植の普及を拒む一因だ。
過去の医療状況では、脳が死んだ時点で体の他の部分も死んでいたため、脳死という概念は意味のないものでした。
「意志する死骸」と「抜け殻と しての死骸」の両観念をどう統一的にとらえるのか私もこのような事態に陥れば関心を持つが、でなければ日頃の無関心さはどうだと恥じ入る限りだ。


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