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生命活動の量子効果

古典物理学ではエネルギー的に困難であると考えられる電子の移動でも、電子の存在確率のあやふやさ(量子効果)を利用して実現できるという。

他にも渡り鳥のナビゲーション機能、動物の嗅覚、さらにDNAやタンパク質がかかわる酵素反応など幅広い生命現象に、量子効果が関連しているのではないかと報告されています。
生命活動とか、今までの物理学では説明できないものがいくつもある。物質に形や大きさがあるのも、われわれが住んでいるのが、生命を宿し複雑精妙なできごとに満ちあふれた美しい世界であるのは、量子効果のおかげであるといわれる。
量子効果とは、目にも見えず、感覚でも理解できない極小の粒子世界を扱う量子論によってはじめて説明が可能になる物理的な効果のことをいいます。
物理学で言う「構造の安定性」とは、人間が設計した工作物ではなく、「自然に」という点が重要である。こうした構造安定性は、多くの場合、量子効果の現れである。

ブラックホールの存在を説明するにも使われる量子力学が、私たち生命の駆動原理として存在すると考えるのは、私のような一般人の理解を超えますが、だからこそ知りたいという願望もつのります。

また、量子生物学という分野があり、そこでは、全ての物理現象が量子力学であるのと同じように、物理現象の一形態である生命活動も量子力学がかかわっていると考えられているのだそうです。

先進的な脳科学者たちは、光合成が量子効果で進むのと同じように、「意識」もまた量子効果によって説明できる部分があると考えています。

量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できず、観測すると観測値に対応する状態に変化すると解釈する。
これをコペンハーゲン解釈と呼ぶが、別な解釈として、観測する人間の意思が量子の状態を決める、あるいはその空間を支配している何かの意思によって決まる、という見方もある。
物事が、人の意思、あるいは絶対を支配する数学の方程式か、はたまた神の意思によって決まるのかは、それぞれに考えるのは自由である。世の中の存在を決定するのは、あらかじめ決定されたように推移するのか、自由意志によるのかは、今なお結論できていないものだからです。

意識とか意思、あるいは魂や心とはどういうものなのか、私にはわからない。でも、いずれにしても「思い」という言葉に通じている気がする。思う力が物体を離れ、時空を超え、消えることなく、別の誰か(何か)に伝わっていく、そんな「想い」という現象も否定できない。

ペンローズは臨死体験との関連性について次のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっているが、体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合、意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続けるか、あるいは別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれないと。

この世界は波動・振動でできており、その根本には結晶があり、振動が現実化したものが物質なのではないかと考える。

 量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れた。
ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

 脳は、意識の受け皿にすぎないかもしれない。意識は、肉体に付属するものではなく、別々のものであるかもしれないのだ。
自分を大事に育ててくれた両親が死に、自分の成長を「草葉の陰」で」喜んでくれているだろうとの思いはあながち幻想とは言えないだろう。
そう考えると、死後の世界は論理的に実在している考えてもいいのだろうか。

 いずれにしても、宗教と科学とは頭を突き合わせて議論する時を迎えたののだ。

意識が物質世界よりも根源的
物質ではなく生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であり、意識は肉体的な死とは別物である上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張している意見もあることを添えておこう。

最後に仏教は端的には唯識です。世界は唯、心あるのみと考えています。「私たちが体験している現実世界は、すべて心の中のものであって、心の外には何も存在しない」という思想が唯識です。

量子論は、東洋理論に深く影響され、現代においてその理論を構築して来たともいわれる。
それは何故かといえば、観測対象である自然と観測者を分けて考える二元論的な世界観を退け 自然と観測するものを一つのセットで考える一元論的な自然 、すなわち東洋思想の一元論的宇宙観に限りなく接近しつつあると言えるからである。
仏 教は無実体、すべての存在は無我とする。 私たち、それ自体で存在するものは何もないとします。
すべての相依性の上に存在しているのです。
その成立の仕方はあるがままるなのだ。何らからの細工を加えたものではないので自然に対峙するときは東洋、とくに日本人は、「あるがままに」が基本的立場になります。
量子論の初期は、二元論的立場の科学であったものが、確率論の導入により一元論的な東洋のそれに近づいたというのだ。

量子の世界では自然の本質は二つの性質をあわせ持つきわめて曖昧であることを示してきた。
本来自然というものはだいたいの測定や確率的な予測を行うことしか出来ないものだ。
それほど 自然は本来、曖昧性に満ちている。
物事を「あれとかこれ」と峻別することができないのが本来である。
ですから、東洋の思想はその曖昧さが災いし決定論を本分とする近代科学に後れを取ったが今後の物理学は東洋の知恵に学ぶことがさらに大きなことになるだろう。
日本人がノーベル物理学者を多く輩出しているのも筋が通るのだ。

電子は粒子と波の性格を同時に併せ持つ。波のように振るまう時や観測した途端に粒子として姿を現す。これらは二つの事物が互いに補い合って一つの事 や物の世界を形成しているという考え方を相補性という。

粒であることと波であることとは矛盾する。例えば粒は同じ場所に二つ同時にいることは不可能だが、波は二つが重なって強めあったり弱めあったりする。
しかし物質は究極的には粒であり波である。西田哲学風にいえば、絶対矛盾的自己同一。
これを認めるのが量子論である。ボーアは波/粒の排他的な状態の二重性を「相補性」と呼んだ。このあたりが近代科学が東洋、特に仏教哲学から学んだことなのだろう。

観測したとたんに、波であったはずのものが粒になる、波が粒へと凝縮されていく様が見えるわけではない。
すでに粒になってしまっているのだ。
光なり、電子なりが、自分が見られることを知っていたかのようなのだ。
この事実を世界の成立条件であるとし、絶対矛盾を否定し合うという相補性を数千年前から仏教は基本的な概念としたのだ。

詳細を述べれば、Aが存在するのは非Aが存在するからで、非Aが存在するのはAが存在するからである、というように相互依存関係においてとらえる原理を哲学的には「相互律」といい、Aは非Aによって、非AはAによって存在しているという根源的な関係に深く「気づく」ことが大切なのである。

現代物理学の先駆者達が事物が持つ矛盾律を東洋の古きを求め新しきに気づいたパラダイムシフトがあったのだ。


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