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明治期に功績を残したチェンバレン

 江戸が東京と名を改める19 世紀は、日本が西洋文化と本格的な接触を始めた時代であり、種子島での漂着西洋人をとおして初めて西洋文化に触れた時と異なり、社会全般にわたる衝撃的な出来事をひきおこしていた。

この変革を担ったのは、高給により招聘された外国人教師の働きでもあるが、この急激な変貌は、彼ら自身の驚きでもあり、それと同時に、日本社会の行く末に彼ら自身も危惧の念を抱いたのも事実であった。

 76(明治9)年に東京医学校(翌年、東京大学医学部と改称)に着任したドイツ人ベルツは、彼の日記に次のように綴っている。

「 現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。

「いや何もかも日本は野蛮なものでした」とわたしに言明した者がいるかと思うと、……「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言する始末です。……これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです。 『ベルツの日記』

このように性急な変革に邁進する日本人の姿が、彼の日記のそこここにとらえられているが、急ぐあまりに、安易に西洋文明の果実のみを取り込もうとする日本を危ぶむ思いも彼は表明している。日本在留25 周年を記念した祝賀の席での演説では、
「 西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を、年にこれこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして…… 」と話している。

同様な心配をするのはベルツだけではない。70(明治4)年末に来日、福井藩校の明新館で理化学を教えた米人のウイリアム・グリフィスは、『明治日本体験記』に以下のように記している。

「 今、試みられている力強い改革が完成し、永遠なものになるだろうか。一国が根がなくてキリスト教文明の果実のみを占有できるだろうか。できないと信じる。 」

日本のような、キリスト教国でない野蛮な国が近代文明国になれるのだろうか、というのが当時、日本を訪れた多くの外国人が持った疑問と言える。駐日英国公使であったラザフォード・オールコックは『大君の都』に書いている。

「 実際ヨーロッパに存在するすべての文明は、キリスト教によって形成され、その最善の型の発達のすべてはキリスト教からきている。であるから、近代文明の成長をキリスト教の影響と切りはなして跡づけることが不可能だということはもちろんである。 」

日本が近代国家に向けてまっしぐらに駆けている姿を目の当たりにして次のような感慨を抱いた人もいた。駐日米国総領事であったタウンゼント・ハリスは、57(安政4)年、長い交渉の末にようやく実現した将軍に信任状を直接、奉呈するために江戸に行く途中、神奈川から川崎に向かう東海道で見物人の幸福そうな姿を見て、彼の日記の『日本滞在記』でこう述べている。

「 これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。 」

しかし現実は日本の近代化の勢いは止まらない。その結果がどうであったか。私のライフワークの対象者であるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、『神国日本』で次のような恐ろしい悪夢をみている。

「 この国のあの賞賛すべき陸軍も勇武すぐれた海軍も、政府の力でもとても抑制のきかないような事情に激発され、あるいは勇気付けられて、貪婪諸国の侵略的連合軍を相手に無謀絶望の戦争をはじめ、自らを最後の犠牲にしてしまう悲運を見るのではなかろうか、などと、、、」現実には太平洋戦争後の日本の破滅を言い表しているのだろうか?

 幕末から明治にかけて来日した西洋人は、日本の社会についてどのような思いを抱いたのか、何に関心を持ったのか、彼らの日記、旅行記などを通して日本の国際化についてみていくことにしたい。  
バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850年10月18日 - 1935年2月15日)は、イギリスの日本研究家である。
 彼は、明治時代に日本に滞在し、日本の文化や言語を研究して、幅広い業績を残した人物です。
 研究・教育を通じて、日本語学・言語学の発展に寄与し、日本文化や文学作品を海外に紹介したことでも知られています。
 アイヌ、琉球の研究でも先駆的な業績を残しました。
能については、ギリシャ古典劇との類似性や文学的な性格に着目し、詩文学の観点から謡曲を海外に紹介した人として、能楽史にその名を刻んでいます。

 チェンバレンは、1850年(寛永3年)に、英国の港町、ポーツマス近郊で誕生しました。スコットランドの旧家の出で、父は海軍少将を務めていました。幼い頃に母を亡くし、フランスの祖母のもとで育てられたそうです。長じて英国のベアリング銀行に勤めますが健康を害し、治療の一環として航海に出ます。船を乗り継いで旅を続け、1873年(明治6年)に横浜港に着きました。

 来日後のチェンバレンは、お雇い外国人として職を得ます。1874年(明治7年)から1882年(明治15年)まで海軍の兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教え、1886年(明治19年)からは東京帝国大学の教授となり、日本語学や言語学を担当しました。
 国語学者の上田万年(かずとし)、岡倉天心の弟で英語学者の岡倉由三郎(よしさぶろう)、歌人で国文学者の佐佐木信綱などを門下生とし、彼らが大家に育つのに大いに貢献しました。

 その間、日本文化に目を瞠(みは)り、精力的な研究、翻訳活動を行います。代表作には、日本の和歌についての解説本で、謡曲、狂言の記載もある“The Classical Poetry of the Japanese”(1880年 『日本人の古典詩歌』)、古事記の英訳本“A Translation of the‘Ko-Ji-Ki’”(1883年)、日本の文化や風俗を幅広く解説した“Things Japanese”(1890年 『日本事物誌』)などがあります。

 チェンバレンの能への関心は、ある人物との出会いが影響しています。チェンバレンは、東京・芝の青龍寺に住み、そこの僧侶から紹介を受け、近所の旧浜松藩士、荒木蕃(しげる)の家庭教師となり、英語を教えていました。この荒木蕃は、優れた見識と教養を持った人で、ただ英語を習うだけではなく、チェンバレンに日本文化の良質なものを、次々と紹介する役割を担います。『古今和歌集』などの存在を教え、能を観に連れ歩きました。

 チェンバレンは元来好奇心が強く、豊かな語学の才能を持っていました。荒木蕃と一緒に、何度も能を観るようになったチェンバレンは、謡曲の世界、そこに展開される和歌の世界に魅せられて、才能を活かし、自分でも和歌をつくるようになりました。女流歌人の橘東世子(とせこ)を荒木から紹介され、和歌を学ぶようになったのです。

 この橘東世子は、徳川家に仕えた和歌の名門、橘家に嫁いだ人で、自分も天璋院篤姫に仕え、和歌を教えていました。橘東世子から雅な日本語を学びつつ、チェンバレンは、和歌や能についての研究を進めていきます。

 能、和歌の研究成果は、先に挙げた“The Classical Poetry of the Japanese”として、ロンドンで出版されます。日本の詩歌が、『万葉集』から『古今和歌集』へ、その後謡曲へ受け継がれたという視点で語り、それぞれの作品からいくつか抽出して翻訳しました。謡曲では「羽衣」「殺生石」「邯鄲」「仲光」の四曲を、加えて狂言の「骨皮」「座禅」の二曲を翻訳しました。

 彼は能を、日本のオリジナルな叙情詩の生命力を今に伝える芸能であるとして、高く評価しました。
 不完全な原本からの翻訳などで苦労をしましたが、西洋と再び日本が交流を開始したこの早い時期、能を高度な文学作品として紹介したことの功績は、日本人ならずとも大いに称えられるべきでしょう。

 後に出版した『日本事物誌』のなかでも、彼は能に言及し、ギリシャ古典劇と似通ったところを指摘しつつ、その特質をわかりやすく西洋の人たちに伝えました。

多くの外国人が日本の発展のために尽くしたがやがて大正時代に入るとともに西洋一辺倒主義が見直され日本の伝統的な文化や芸術への回帰運動のようなものが起こってきた。そこで、大学で教鞭をとっていた外国人たちは次第に日本人に取って代わることになり西欧一変主義は次第にうすれていったのだ。
このような中でやはり外国人お雇い教師の中で今なお光を失わないのは、チェンバレンとラフカディオ・ハーン二人であろう。
彼らは多くの著作を海外で発行しどれもが西洋社会で多くの支持を得て日本文化の海外評価を普遍的に確立した功績があるからだ。
しかも、彼ら二人は受け身的に招請されたのではなく、自身の希望により、来日を果たし、自身の努力により教育者として、文学者として日本人から受け入れられ今なお研究者が多いことからもその功績が知られるからである。


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