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迫真の留学日記19「物乞い役」

 日付:2023年11月23日(水)
 位置:アメリカ カリフォルニア州(時差-17時間)
 身分:留学生
 天気:晴れ


 登場人物
・緑茶ドラゴン:書いている主、21歳日本人男性


 日本に住んでいるうちは、物乞いをする人を見かけることは少なかったが、初めてタイに行ったときに、道のいたるところに物乞いの人がいたのを見て、日本の生活保護の偉大さを実感した記憶がある。

 そして、ここアメリカでも物乞いをして生活している人はいる。場所は人通りが多いところか、スーパーの前だ。これは理にかなっている。また物乞いは大人一人で行うのではなく、子供を連れて同情をさらに誘ってくる人もいる。

 あまりそういう人たちを見てこないで育ってきたせいなのか、私は見るたびに何も与えられるものがないことに申し訳なく思っている。もし自分にお金がたくさんあったら林檎でも買っていたと思う。しかし、お金があるかないかに限らず、いつでも人に与えることができる人こそ真に優しい人なのだ。

 しかし、自分を冷たい人だと責めていてもしょうがないので、今は
より多く稼いで人のためになるようなことができるようになろうと思う。

 おそらく物乞いの人も無視されるのが基本なので、そこまで私に対して憎悪だったり薄情者だと罵ったりはしていないと思う。

 というのも、私は物乞いをしたことないが駅前でチラシ配りくらいはしたことがある。街中で不特定多数の人に向けて思いを伝えるという構造は似ている。

 そして大抵の場合、配り終えた後に覚えているのは、受け取ってくれた人達だ。受け取ってくれなかった人たちは配っている人の人生のエンドロールに登場してくることは絶対にない。しかしせっかくなら、”あの時林檎をくれた人B”くらいにはなりたいものだ。

 チラシ配りと言えば、チラシ配り経験者と未経験者だと、確実に経験者の方がチラシを受け取ってくれる確率が高い。というのも、もらってくれる人の少なさや、もらってくれた時のうれしさは経験しないとわからないのである。

 よくある物語では、何の変哲もない一般男性脇役のバイト先として、コンビニが採用されることが多いのだが、チラシ配りはさらに脇役感の強いバイトである。街中を歩く人にとってチラシ配りは、街の背景の一部でしかない。お遊戯会の木の役と同じだ。

 そんな誰でもできる脇役用の仕事であるが、実際にやってみると、自分の中の物語の主人公のステータスがチラシ配りになっていて、周りを歩く人が脇役になっていることに気が付くだろう。

 何が言いたいかというと、人の数だけ人生という物語の数があり、その数と等しいだけの主人公がいる。そしてそれぞれが全く違う過程を経て形成されているのである。

 なぜそのようなことをするのかが、理解不能な行動があったとしても、それは他人の物語の一部だけを見ているからである。もちろん、全部を見ることは不可能なので、真の意味での共感をすることは不可能である。しかし自分を取り巻く世界で生きている人たち、ひとりひとりに物語がある事を理解すれば、相手のことを尊重することができるようになると思う。

 あなたの物語は、喜劇ですか?悲劇ですか?それは作者次第です。

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