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マインドフルネス:Map or Compasという考え方

アプリ「Calm」をダウンロードして、マインドフルネスの世界に触れ始めて、もうすぐ1年になろうとしている。(さぼりさぼりですが…)

初心者的な基本スタンスとしては、現状で起こっていることを「認識する」にとどめ、「(その良し悪しを)判断しない」。
観察眼的な視点で、自分や自分の身に起こっていること、向き合っている人や事をとらえ、自分の心(感情)にそれを持ち込まないというトレーニングをすることと理解しています。

それで、自分(や周囲)の「ありのまま」を肯定していく。

「これでいいのだ〜」(ほじほじ)

わたしの中では、この、「薄目を開いて生きている」感覚って、
捉え方によっては、「無気力」「無関心」「脱力的」な状況にも近いのでは、と感じていて、
「もっとこうしたい!」
…世界をもっとよくしたい!とか、自分はこうなりたい!とかいう「ミッション」や「夢」的なものの対極として、「観察〜」「これでいいのだ〜」と、多くの人がそうなっていくとき、それって、社会の「エネルギー量」が低下していくことを意味するのでは?それって、本当にこの世界をハッピーにするんだろうか?
という疑問というか謎、につながっている。

もちろんこれは、あくまで初心者レベルのスタンスで、
マスターになれば、きっと、その静寂というか人間としてバランスの取れた立ち位置から、世界にとってプラスのエネルギーを発することができるのでしょう。

つまり、「薄目」でぼんやり歩むのでなく、
真に「半眼」で生きられたらば、それはもはや仏(禅)の道ということなのだから!

最初は、いろいろと生きづらいこと、ストレス、そういったものをどう対処していこうとすがる思いで始めたトレーニングだけれど、
この頃では、その個人的に感じている「疑問」や「謎」を解釈したり、その結果、自分の心持ちがどう変化していくのかがとても興味深くて、続いているような状況になってきた。

それで、先日のセッションが(わたしの解釈するところによれば)「それってMapですか、 それともCompassですか」というお題で、とても面白かった。

例によって、
「他の人や事に期待するのはやめましょう」
というような冒頭に、
わたしとしては心の中で、

「キタキター!無気力人間!
自分にも人にも何にも期待しないで生きるなんて人生寂しすぎるやろー!孤独か!
はたまた、新人教育なんかでよく言われるような、”他人は変われない、変われるのは自分だけだ。だから自分の態度や考え方、アプローチ方法を変えるのだ”みたいなやつか、これは!いや、しかしマインドフルネスでは自分もありのままでいいんだからな…むむむ。」

みたいなひとりツッコミをしながら続報を待っていたのですが、
(常にツッコミから入る、これもわたしのありのまま)
○「わたしたちの間に、Map(地図)は存在せず、そこにあるのはCompass(方位磁針)である」
ということらしかった。

その場ではすぐに理解できず、
悶々と考え続けること一日。

なんとなく見えてきたことは、
○Mapとは、ある方向に行こうとするときの、すべての道が示してあり、時には指定のルートが存在するもの。
○一方のCompassは、その「ある方向」のみを示すもの。

Mapが「期待」であるのに対し、
Compassは「信頼」とでも言おうか。

これが、人間関係において言えば、未来の何かの実現について、
○期待する=相手の行為・態度・手順などのプロセスも、結果も、「自分の」思い通りになる
○信頼する=お互いに実現したいこと(結果)、そこに行き着くための大体の方向性についても共通の理解があり、あとは信じて任せる
ということでしょうか。

期待、信頼ともに、辞書的な言葉の定義ではなく、あくまでわたしの理解です。

もちろん仕事の場において、例えばあるプロジェクトで、「いつまでにこのA地点に確実に行き着かなくてはならない」ということで、「方向性合っていればOK」なんていう”“悠長”なことは言ってられないことだって、現実的にはあるでしょう。

誰かがMapを書いて、
その道順通りに必死に進むことが求められる場面だって、あるでしょう。

でも、いくら仕事にしたって、すべてに関してそうではないはず。

以前のnoteに書いた「フィードバック」についても、この考え方が適用できると思う。

つまり、例えば、上司から部下へのフィードバックについて、
それは、「期待している」のか「信頼している」のか。

フィードバックがネガティブになりがちだったり、
マウンティングの機会、または、パワハラにもなりかねない場合というのは、
そこにあるのが「(一方的な)期待」であって「(双方向にある)信頼」ではないからなのではないだろうか。

「期待しているよ!」というのは聞こえがよくて、
仕事なんかで「君に期待している」「期待しているから、今からいう厳しいことも聞いてくれ」なんて言われると、思わず発奮してしまう真面目な人ほど、「自分はこのままではいけないんだ」といったことを深く考え悩んでしまって、鬱々としてしまう…ということが起こっているのではないか。

その期待が、実は相手の(時に勝手な)理想像であって、「わたし」がわたしであるまま受け入れられることはない、ということに気づかないまま…

自分自身の経験を踏まえても、その「平行線」に気づかず、フィードバックし合っていることが多くあったのではないかと思い当たる。
どうもがいていいかわからなくて、つらい。
たぶん、お互いにつらい。

平行線であることに気づいてしまったとき、その関係性は破綻するかもしれない。
けれど、気づかないより、健全なのではないだろうか?

仕事に関してだけでなく、例えば子育てにしても、そうかもしれない。

親の子に対する期待とか。

「元気でいてくれればそれだけで十分」なんて言いながら、
子どもの日々のいろいろなこと、(しつけ的な意味での)態度や振る舞いに、いちいち細かな指定、Mapをもってして、あれこれ注意してしまっていないか?
この学校に進むべきとか、どういう職業につくべき、なんていうのも、その延長線上にあるのかもしれない。

自分のマインドを、ほんの少しCompass寄りにするだけでも、
自分と何か、誰か、との関係を、よりヘルシーなものにしていくのかもしれない。

むしろ、自分自身についてもそうなのかもしれない。
自分の歩く道筋に、事細かな期待をするより、大きな方向として、「いい感じ」なのかどうかということも、生き方として大事かもしれないということ。

それが、人生という旅を楽しむコツなのかもしれないってこと!

それで、「マインドフルネス」というか、なんというか、オリジナルの「フルポジティブネス」で生きているオットにおいて、検証を試みた:

わたし「ねぇ、オットさんは人に期待する?」
オット「しない」(即答)
わたし「(やはり、この人のポジティブネスは期待しないところにも立脚しているのか…)仕事とかでさ、一緒になる人に何も期待しないの?」
オット「うーん、期待はしていない。期待とは違うなぁ、なんだろ。なんて言ったらいいのかなー。」
わたし「”今日もツマが晩御飯つくってくれてるだろう”、とかも、思わないの?それは期待じゃないの?晩御飯なかったらどうする?」
オット「晩御飯なかったらいやだなー。でも、“つくってるだろう”と信じてるからなー。仕事もそうかもなー、大体信頼してるからなー。」

そこで、MapとCompassの話を持ち出したら、
「それそれ、それすごい言いたい事に近い!すごいわかる!!」
とポジティブネスを発揮して大絶賛。

検証結果:それはMapなのかCompassなのか?は、自分と他の人・事との健全なリレーションを築くために自問してみるとよい。また、自分の生き方、人生を楽しむツールとしても、Compassを基準に考えることはおそらく有効である。

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