2人目育児:「生まれてきちゃったね」

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2018年も暮れに差し掛かる頃、我が家の2人目となる子どもを出産しました。
このブログを書くモチベーションの一つに、「(情報を必要としている)誰かのため」というのがあるので、結構、「ド・プライベート」なことだなと迷いつつも、妊娠・出産・育児関連のなんだか実用的・実際的なことなどもぼちぼち綴っていきたいと思います。
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自分で産んでおいてなんなのですが、子どもが生まれて最初の夜、部屋で赤ちゃんと2人でいるとき、率直に、そう思った。

「生まれてきちゃったね」

昼間、出産のための部屋に入って、いよいよ生まれるか?というフェーズにあって、しばらく陣痛が弱まってしまった時に、助産師さんが「まだ出たくないんだねー」と言っていて…
わたしは深呼吸をしながら、お腹に意識を向けながら、「ああ、そうなのかも」と、
この子は、外の世界を怖いところと感じているのかもしれない、と、感じた。

早産の可能性があり、いろいろと気を使うことになった妊娠後期、お医者さんが冗談混じりに、「お腹の中は3食昼寝付きだもの、赤ちゃんは少しでも長くいたいから」と言ってたことも、ふと思い出された。

お腹の中がいわゆる「コンフォートゾーン」なのだとして、
そこから、生きるための術(まずは、おっぱい(ミルク)!)を自分で勝ち取っていかなくてはならない外の世界に飛び出すのだもの、それは実際、大変勇気のいることだ。

そう思うと、
「外の世界も悪くないよ」
と導くのは、わたし(たち)だし、
子どもがそう思えるようになるためにできることを尽くすことが、
愛、または、責任、のかたちなのかもしれない。

少なくとも、幼少期においては。

子どもは生まれてきたくて生まれてきたとか、
子どもが親を選んで生まれてきたとか、
素敵な議論もたくさんあるけれど、
わたし自身はやっぱり、「わたし(たち)が勝手に産んだ」という気持ちが強い。

ぬくもりをこの手で抱きたかった。
子どもが育つ様子をこの目で見たいと思った。
世界を一緒に見たいと思った。

わたしのエゴに巻き込んだ。

…だからといって、
「生まれてきちゃったね」

「産んじゃってごめんね」
にはしたくないし、
できれば、子どもに、
「勝手に産んだんじゃないか!」
とも言われたくない。

生まれたてのこの子とわたしたちに、
これから何が起こるかは誰もわからない(神様は知っているのかも)けれど…

世界も人生も、人間のエゴがああだこうだと交錯して出来上がっているのだとして、
生まれてきちゃった、そんな我が子に対しては、
わたし(たち)のエゴに付き合って始まった日々に対して、
「ひとつよろしくお願いします!」
という気分で、
そのうちに、彼自身が、この世界にいることを「あたかも自然に」思うことができるように、
守り、放っていきたい。

そういうエゴを受け止めて、
引き継いで、みんな生きてるんだな。

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