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「現代美術のない美術館で芸術の未来を考える」国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?―国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」公開座談会レポート

 国立西洋美術館 企画展「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」関連イベントとして、2024年3月23日(土)「現代美術のない美術館で芸術の未来を考える」と題した公開座談会が同館講堂にて行われた。

 登壇者:梅津庸一、小田原のどか、布施琳太郎、松浦寿夫。司会:新藤淳。(敬称略)

 芸術の未来を考えるためにオルタナティブがいかにして可能か考える・観客を作り直す活動・内部から制度や歴史を書き換える意識・美術活動にまつわるお金の巡り方・展示が始まってみての所感など、幅広く濃厚なトークが展開された。
 アーティストの解がバラバラであるという本展への指摘は望んだことでもあると述べた新藤氏。また本展のような挑戦は今回限りでなく今後も続けてほしいという声も上がった。


 間違いなく2024年注目の美術展覧会の一つであり開幕と同時に大きな話題を呼んだ、国立西洋美術館による企画展「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?―国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」。
その関連イベントとして、3月23日(土)「現代美術のない美術館で芸術の未来を考える」と題した座談会が行われた。周知の通り国立西洋美術館に収蔵されているのは西洋の物故作家の作品のみであり、現代美術作品が並ぶことも、出展アーティストが展示についてあれこれ語り合うのも初めてのことだ。

 登壇者は展覧会図録に論考を寄せた4名の梅津庸一、小田原のどか、布施琳太郎、松浦寿夫。司会は本展企画学芸員の新藤淳。
「公開座談会」としつつ募られた参加者は事前申込制での先着100名。わずか3時間で受付終了となっていた。アーカイブ動画配信などもなさそうということで、できる限りとったメモを元にここに書き残したい。

 ノンストップの2時間は非常に濃密であった。前半は現代美術を巡る実践的な活動について。後半では本展への観客の反応も含めた率直な感想を述べ合っていた。この記事では便宜的に分割した🔑キーワードごとにトークを振り返る。


 ※以下は主に登壇者の方たちの発話を抜粋・要約したものであり、レポートの書き手である筆者によって削ぎ落としや拾い漏れや聞き間違いや解釈違いや記憶違いなどの可能性があることを含みます。また文脈の取り違えがあったとしたらそれは意図せぬところであり発話者ご本人から指摘があった場合は都度訂正など適切な処置をおこなうこととします。誠に勝手ながらここまでかなりメディア記事っぽい雰囲気を醸し出させて頂いておりますがあくまで個人のメモによるもので取材や裏取りなどは一切しておりませんのでご注意ください。





 はじめに本展企画担当学芸員の新藤氏より挨拶と、登壇者は作品を作るだけでなく論客を得意とする4名であるという簡単な紹介を行い、また、本展は美術館が未来のアーティストをいかに触発しうるかと問うコンセプトであるが、ここでいう未来とは国立西洋美術館が開館した1959年以後の時間、そしてこれからの時間も含む意味であると述べた。
 新藤氏はまず、『資本主義リアリズム』の著者としても知られるイギリスの批評家マーク・フィッシャーによる著書『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』(五井健太郎訳、2019)の巻頭「緩やかな未来の消去」より「ニ十世紀の実験的な文化が、新しさなど無限に可能であるような気にさせる遺伝子組換え的な熱狂にとらわれていた一方で、二十一世紀は、有限性や枯渇という屈辱的な感覚によって虐げられている。いまこそが未来なのだという気分にならないのである」という言葉を引いた。1968年に生まれ2017年には自ら命を絶ったフィッシャー。彼が生きたのはイギリス激動の時代で、新自由主義経済政策を推進したマーガレット・サッチャーが「There is no alternative.」(オルタナティブはない、この道しかない)というスローガンを掲げるなど、オルタナティブ、つまり別なる可能性を求めることが失われていく時代であり、そしてそれは文化の領域にも浸透しかつて夢見られた未来はどこにもないというのが彼の主張だった。
 では日本の現代美術界におけるオルタナティブな動きはどうなのか。トークは、新藤氏によるそのような投げかけからスタートした。


🔑2020年代のコレクティブ/オルタナティブ

新藤🟣2010年代には様々な形でアーティストコレクティブが台頭し、美術館の外での表現形態や自主的な流通経路が開拓され、アツいオルタナティブが求められた時代だった。一方でハラスメント問題の顕在化等により悪い形で閉じていった印象。2020年代のオルタナティブを求めること自体が後退しているようにもみえる。(梅津氏主宰のコレクティブである)パープルームは過去に「数値化される価値、定量化される価値に抗っていきたい」とも言っていて、絵画における、美術教育における、ギャラリーにおけるオルタナティブを思考されてきたと思う。芸術の未来とは、いま、オルタナティブがいかにして可能か?という問いと同義ではないか。
梅津🟡増えすぎた人口、先行世代の価値体系の揺らぎなど欠陥だらけのなかで現代アートとは何を指すのか。エコロジー?AI?変数的で確固たる定義付けもままならない状態であると「何に対してのオルタナティブ?」となる。
松浦🟢オルタナティブを主張することは対抗する何かを定立することであり、敵対したものの構造を反復する可能性もある。フィッシャーが幽霊という言葉を用いているが、実在しているのか不在なのかという実在と不在の対立項そのものに当てはまらない事例として幽霊というのが出てきていると思う。それに当てはめると「何かとオルタナティブ」という構造自体に対するオルタナティブが必要なのではないか。また、資本主義というのはあらゆるオルタナティブを成立させて且つ推力としてきたのであって、オルタナティブを失うことは資本主義にとっても危機である。オルタナティブというよりオートノミーとしてのあり方を考えたいとも思う。
小田原⚪️強いステイトメントを立てた個人と新陳代謝するその周り、というのがコレクティブ。対して誰かが導くのではなく、助け合い、それぞれ個として対等でありながら形成されるのが(自身の活動の場でもある)アーティストユニオン。パープルームは梅津さんがいなくても成立するのか?
梅津🟡誰かが責任を持ってやり遂げるロールモデルを作れるという面もある。だが人が入れ替わってもまわるというのを求めているというより、ここからソロのアーティストや新たなコレクティブが生まれてほしいと思っている。
布施🔵責任の結び目と方向性を決定づける権力の発動がパープルームの中で結びついているならいいと思う。責任の主体がバラバラになると外にいる人が関わるのが難しくなる。どう責任の焦点を作るか、ハラスメントのない組織が作れるかというのは自身が展覧会を作る度に考えている。
梅津🟡パープルームとは別で名前を隠しながら、日の目の見なかった人をいかに参画させるかという動きもしている。名が売れると仕事が来るのが営為の常だが、自分の資産が増えるとかアート界をいかにサバイブしていくかとかではなく、全てが善行ではないが…利害関係のない人が参加しやすくなるような活動をしたい。
布施🔵梅津さんとの違いとして小田原さんは、守らなきゃいけない人を守るために一人では難しいときに団体化している。
新藤🟣小田原さんは、トップダウン形成のコレクティブでハラスメント問題等が出てきたことを反省的に見て、持続可能なアーティストのあり方をユニオンで探られていると思う。


🔑観客を作り直す

新藤🟣布施さんは、先行世代は前衛を求めて活動していたが自分達には頼りになる歴史観がないと仰る。
布施🔵2013年の大学入学前から『新世紀エヴァンゲリオン』などにみられるような、同人的活動が世界全体にインパクトをもたらすことに対し憧れを抱いていて、それを今やる手段として現代美術を選んだ。しかし頓挫するプロジェクトやハラスメント問題をみて、観客を作り直すことから始めなきゃいけないと感じ、ここ1年は自主企画で講義をおこない、動員と同時に理論的な枠組み作りもしている。
(観客を作り直す、ということに梅津氏・小田原氏も賛同)
小田原⚪️先行世代は既存の歴史に寄り添っている姿勢がみえるが、自身の執筆活動では今まで光が当たっていない彫刻の歴史を自分なりに調査して読者を作っていく意識でいる。
梅津🟡普段ギャラリー巡りをしないような方も訪れてくれている。がっかりさせないようにしたい。


 このとき、登壇者らは自身の活動と観客との間におけるお金の巡り方についても触れている。布施氏は自主企画の講義では参加費をもらっているが、自身が提示する枠組みを受け取ってもらいながら逆に参加者から理論的な指摘をもらうことに刺激を受けてもいるし、顔色を見ながらのコミュニケーションの中だからこそ社会通念上ギリギリなことが言えたりもするという。小田原氏は、昨年11月に出版した山本浩貴との共著は出版前におこなった連続講義の収益を資金の一部に充て、さらにそのことを冒頭に掲載することで他の方にもできるのだと共有することが大事だと強調していた。


🔑美術の自立性

布施🔵2010年代の問題は、アーティストとアーティストになりたい人(教える/学ぶの関係)が緊密になりすぎて、アーティストではない・なろうとも思っていない人達が軽視されすぎたこと。
新藤🟣父権的な構造が内在していたのは確か。
梅津🟡美術は、美術館や美大などの制度に依存しているのが問題で、自立性が低いジャンルである。
新藤🟣松浦さんが重要視する歴史観は、それぞれのジャンルの自立性が保たれつつ衝突し干渉し合う事かと思う。
松浦🟢自分自身はコレクティブを考えることはないが、その都度個人同士が偶発的に接続する回路はある。例えば今回抗議活動をおこなった飯山由貴さんと自身の作品の作り方は全く異なるが、彼女の抗議活動と瞬間的に接続する回路はある。回路を開いておきたい。それと自立性が同時に成立するか考えることは課題である。


 トピックは、現代には頼りになる歴史観がないという話に戻った。先行世代は、椹木野衣が語る「悪い場所」という強固な言説から抜け出せずにいる――。


🔑現場主義/主体の変容

梅津🟡批評的な理念だけで闘うのではなく足を使って調べながら、そうじゃない言説を探しているつもり。理論化されると削ぎ落とされるディテールがあり、そこにこそ問題の因子や本質的なことが含まれている。制作の各現場ではリアルな諸問題を感じる。ジャーナリスティックな活動を告発ではなく活動理念や制作に結び付けていきたい。
新藤🟣小田原さんも現場主義なところがあると思う。具体的なものを執念深く追いかけ大きな問題を引き出してくる。
小田原⚪️現場に行かないと分からないことも多い。歴史に関して言うと日本美術史の脱帝国主義化や90年代のニュー・アート・ヒストリー等の潮流自体は素晴らしいが、西洋中心という変わらない母屋に対し離れを作るようなもので、お客様が来たら離れへどうぞ、みたいな…。そうではなくサブカテゴリ化してきてしまったものを母屋(本流)に戻していくこと、その時何が見えるのか考えること、本流が「サブカテゴリでいいよね」とみなしていたところから批判することなどが大事だし、自分の作品でも一貫している思考である。そのためには制度の内側に入って内側から変えること―今回でいえば展覧会のオファーを受けることで誰かの新しい想像力を駆動させるかもしれないと考えていた。それぞれの作家がいろんな形で見せていくことに意味がある。実際始まってみて歴史観やコレクションへのアプローチも人それぞれかなり違う。自身は、飯山さんや遠藤麻衣さんが内覧会でおこなった活動や主張の全部は賛同はできないけれど、起こったこと自体は支援したいと思うしなかったことにはできないと思っているので自分の作品の中に痕跡を入れている。
布施🔵内側から書き換える主体がいないと歴史は永遠にトップダウンで固まる。別の語りを始めるきっかけを持てなくなるとつまらない。「作品には作者がいる」ということ自体分かっていない人がいたという経験をしたことがあり、基礎的な関係図を読み解けなかった人が読み解ける作品やテキストを作るのが歴史を作るってことなのかも。
梅津🟡制度の内部に入って内側から変えたい一方で、自分自身のありようが変容していることも感じる。そこでの経験が自分を変えていく怖さもある。
松浦🟢主体の変容は十分起こり得る。例えば人類学者は自分の文化圏から可能な限り離れたところに行ったりする。


 この後も、西洋中心主義に対するヨーロッパの方々の実存的な意識について……新しい形式としての文化の植民地主義化について……マーケット先行で価値決定がなされることについて……などといった現代美術を考える上で重要なフレーズが飛び交ったが、残り時間も差し迫り、話の軌道はいままさに隣の展示室で起きている出来事に向けられた。


🔑本展が始まってみて

梅津🟡新藤氏の思惑通りになったのか?
新藤🟣参加アーティストそれぞれの解がバラバラであるという指摘があるが率直にいえばそれは望んだことである。その解を挑戦と制約の中でどれだけ最大値化できるか考えていたから。
布施🔵バラバラで見せたかったと言うが、最終章では辰野登恵子さんや杉戸洋さんやモネなど時代的にも環境的にも異なる中で作られた絵画作品を、解析して構造的に同じだとか言うことなく視覚的に似ているというだけで一つの世界に見えるように並べているとみた。その場合それまでの展示が無化するのでは?
新藤🟣むしろ反対で表層は類似しているがそれぞれのアーティストが抱える問題の差異が見えてこなければ困る。今日の画家がシニャックに回収されて見えるならそれまで。杉戸さんと梅津さんの比較論も絵同士の間でできることだと思っている。



🔑章立てについて

新藤🟣本展構想段階では小企画をいくつかやるという話もあった。ちなみに弓指寛治さんの展示をお一人で(反-)幕間劇とするのは最初から決まっていた。
梅津🟡最終章での最後の展示作品が自分と坂本夏子さんの共作でよかったのか。
新藤🟣美術史はどことなくマーケットに先行されている感触があり、そうじゃないことをやってほしいという意識がある中、造形実験を諦めない梅津さんの制度内批判/個人での活動の両面をお見せしたかった。最後の共作は絵画を描くことの困難さをどこまで引き受けるか体現しているから象徴的に置かせてもらいたいと話をした。
小田原⚪️絵画の問題に収斂させてしまうのは勿体ない。
布施🔵絵画に立ち向かう困難さと展覧会の問いがどう接続するか分からない。
新藤🟣(展示の)形が変わったことは事実です。なぜかということは言えないが……。 



🔑個々の所感/新藤氏どうよ?

布施🔵国立西洋美術館の成立自体が同時代の作家達による(今でいう)クラウドファンディングのような形で始まったというのが面白いし、マーケット主義とは違う形で絵画とお金が関わること、新しい寄付の形に現代美術が使われるのは望ましいのかもしれない。

梅津🟡新藤氏は本展の出展作家において学芸員として批評的な数値化をして上から順に呼んでいるとかでなく有限の出会いの中で交流した人たちに声をかけている。現代アート展はそこが透明化している。
新藤🟣初めて声をかけた方もたくさんいるが、西洋美術館が気鋭の現代アーティストとは縁遠い場所だと思っていた中、この方に何かを問いかけてみたい、お招きしてみたいという思いが10年前からあった。なるべく多くの方、ご自身の言語や思想を持っている方をお呼びしたいと思っていた。だが、この人ってこういう回答かなと思っていても実際違ったのもいくつもあったし予定調和に出来上がったわけでもなかった。
布施🔵アーティストになりたいと思っている人に、学芸員によるその柔軟な対応はどういうふうになされているのか、どのように機会が割り振られているのか、どのように展覧会が完成するのか知る機会を設けてほしい。
梅津🟡新藤氏の日記とか読んでみたい。
布施🔵弓指さんの展示で学芸員の姿の一部が垣間見えていた。
新藤🟣弓指さんの展示への参加ではいい経験をさせてもらった。路上生活の方々がいる上野でジレンマを感じながら仕事をしてきたし文化施設の役割って何なんだろうなと考えさせられてきたけど、これまで個人として彼らと接触することはなかった。今では公園内で声をかけてもらえる。(路上生活者にお弁当や衣服を配給する)アウトリーチは今後も続けようと思っている。でもキュレーターが全部に濃厚に反映されている展示も良くないと思うが……。
布施🔵そりゃ全部の映像作品に新藤さん映っていたら嫌ですけど……。

小田原⚪️出展作家の中でも我々は過剰に露出する機会を与えてもらっていて申し訳ないくらい。今回の展覧会を一回限りにしてほしくない。小企画の予定を引き継いでやってほしい。

梅津🟡展覧会が形になった今、新藤氏はどう?現代アートいやになってる?
新藤🟣準備の過程がとにかく刺激的だった。ディスカッションもできたし。次の方へのお声掛けは具体的に考えられる状態にないが、生きている作家とのディスカッションがいやになったりとかはない。直前でプランが変わったり設営の最終日までリストが完成しなかったり、現代美術を扱って初めて分かる大変さもあった。
布施🔵これで終わってほしくない。生きている作家だから、どんな作品を作るかだけでなくお金がどこから来るかとか何によって稼がれたお金なのかとかもすごく気になるし大きい組織だと見えなくなる部分もあるからそういうレベルから試すような部分もあったらいい。
梅津🟡続いてほしいし、一方で本展が2024年の大きな出来事として刻まれるのであれば美術館の外でもムーブメントが起きていないと。在野で頑張りたい。
新藤🟣今後も他のアーティストとも、よりオープンな場で話ができていくといい。この講堂でできるかは分からないけど。



 やがて新藤氏による参加者への感謝の言葉と締めの挨拶がなされ座談会は幕を閉じた。質疑応答の時間は設けられなかった。


 筆者としては座談会参加前は「皆主張が強くピリついた雰囲気になるのでは」と怯えていた面もあったがそんなことはなく、終始真剣な対話がなされていたように思う。どんなトピックになっても詰まることなくスラスラ話されて進んでいくので(追い付けず意味の通じる文章に戻せず残念ながら取りこぼした部分も多いが)、登壇者らが現代美術にまつわるあらゆる問題点について日頃より目を逸らさず考え巡らせていること・アウトプットし続けていることが分かる。良かったと思うのは、登壇者らそれぞれが活動のうえで意識している心持ちだけでなく、これからのアーティストや観客のためにこういう部分を見せている/見せていきたいという思いや行動について具体例を挙げながら語っていたところだ。ますます100名だけなんかではなく広く公開されてほしいと思ってしまう。また「透明化している」などと言われる学芸員の率直な所感を聞けたのは新鮮であった。本展に訪れた人々の反応も含めながら会期終盤にでもまた、本展に冠された問いに対する検証結果がどのように得られたと感じるか聞いてみたいものである。

 最後に、今回の登壇者が論考を寄せている展覧会公式図録について。論考のほかは、国立西洋美術館長 田中正之氏と新藤氏によるテキスト、章・作品解説、参加作家によるインタビュー集になっている。総ページ数312。展覧会のカタログというと雑誌サイズの作品写真集のようなイメージがあったが、本展の図録はハードカバーで読みやすく持ち運びやすい!!(確かタテ22cmというのは図録デザインをされた木村稔将さんのこだわり)表紙のビニール?のつるザラ感と安心できる硬さもいい!!ページの程よい重さとツヤ感となぜかめちゃくちゃ読みやすいフォント?行間?もいい!!どんなトリックが仕掛けられていてこう感じるのか説明できないのだけどとにかく読む気が起こるデザインの本なのでおすすめです。中身ももちろん必読です!



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