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写真展『hannah』について

『hannah』というタイトルはポラロイド写真展であることと強く結びついています。

ポラロイド写真と通常のフィルム写真の違いのひとつがサイズです。

普通、写真展では作品をどういうサイズで展示するのか、ということは作品の展示意図に関わります。写真は出力される紙のサイズと質感で、鑑賞者に与える印象が大きく異なります。

ポラロイド写真は撮影の時点で大きさが決定されているので、展示に際して大きくしたり小さくしたり、紙質を変えたりすることができません。なので、展示の仕方のほうで工夫することになります。

もちろん、データ化して再出力すれば引き伸ばすことは可能ですが、それでは原理がポラロイド写真からズレてしまいます。

さて、今回はポラロイド写真を「集積」として鑑賞してもらうことを選びました。ひとつひとつは小さく、限定された写真であるポラロイドを一箇所に集めることで一点一点ではなく塊で観てもらおう、ということです。

この「集積」の目的は時間の超越です。普通、人間は物語化によって物事を理解しようとします。映像作品などは時間が物語、あるいは因果をひとに意識させます。ああなってこうなった、という具合です。

僕は写真をやるからには紙芝居や映画とは違う何かを提示する必要があると考えています。ああなってこうなった、ではなく、無数のイメージ(モチーフ)の連続によって時間・物語・因果とは異なる体験を、写真展『hannah』で持ち帰ってほしいのです。

自動車一台を観察する限りは乗り心地や馬力、燃費を気にかけますが、何万台という規模で見ると「交通渋滞」という、一台を見るのとまったく違った現象を観察できるようになります。これをスライドさせて考えます。写真を集積させると、それぞれの写真の鑑賞とは異なる「何か」が立ち現れる、これが『hannah』でやりたいことです。

ここでようやく『hannah』というタイトルについて触れることができます。『hannah』は反対から読んでも「hannah」となり、どちらも始点、終点となりえます。

しかし、言語にする以上始点から終点へ、という時間の経過に拘束されます。始点から終点への流れは物語化発生の契機です。これが言語によるタイトルの限界です。今回は写真でその先へみなさんを連れて行きたいと考えています。『hannah』は始点と終点の存在しない写真の、イメージの「集積」によってその超克を目指すものです。

皆さんにとってこの写真展がよき体験になることを願っています。

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