仕事の「歩留まり」について

◆仕事には負担の大小とは別に「歩留まりの良し悪し」があるのではないか. ふと思ったそんな仮説について書きました. 

 3か月ぶりに, 散髪に行ってきた.

 散髪それ自体は(自分でするわけもなく)面倒とは感じていない(と思う)のだが, 散髪に行くのはなんだか億劫で, ついつい先延ばしにしてしまう. たぶん, 遠足それ自体よりも遠足の準備をしている前日の方が楽しいのと反対の効果だろう.

 とはいえ, ぼくはかなり強めの癖っ毛なので, 3か月も経つと頭のあちらこちらがモコモコしてくる. 洗髪にも手間がかかる. そんなわけで, 仕方なくぼくは髪を切りに行くことになる.

 余談だけれど, 50歳くらいになったら丸坊主にしようとはうすうす考えている. たぶんそれが一番楽だろうし, 修行僧が剃髪する理由もそこらへんにあるような気がする.

 ぼくがずっと通っている理髪店は, さびれた商店街の中にある. かつては盛況な商店街だったと話には聞くけれど, ぼくはその盛況ぶりをじかに見たことはない. 今ではやっているのかいないのかパット見では判別がつかない店がいくつかあるくらいだ.

 そんな商店街の中で, その理髪店は, まずまず活気がある方だと言えた. 通い始めた頃(まだ小学生だった)にはご夫婦とご主人の妹(たぶん)の3人でやっていたが, 今は主にご夫婦の息子さんが店を回し, お客さんが重なると奥から先代が出てくるような形でやっている.

 店に入り, 理髪店独特の椅子に座ると, 短めにとだけ伝えて目を閉じる. 理髪店での会話というのがどうも苦手で, 考え事をしたり, 頭の中を整理したりして過ごす.

 今日は朝が早かったのもあって, すっと夢の国に引きずり込まれていた. だいたい髪を切り終えたところでいったん目が覚めたが, 髭をあたる前, 蒸しタオルで顔を温めているとまたすぐに眠ってしまった.

 ちゃんと目が覚めたのは, 洗髪の時だった.

 按摩機をいつもより念入りにあててくれた後, 細く黒い櫛で髪を整えながら, 彼はぼくの髪の分け目をいつもより少しだけ左側に寄せて, 言った.

「お客さんの髪の流れ方だと, 真ん中もいいですけど, この辺で分けて少し立て気味にすると動きとボリュームが出ますよ」

 ほう, と思った. 分け目が1センチ左に寄っただけで, ずいぶん感じが違って見える.

 さすがプロだと思う一方で, ぼくは彼の仕事の「歩留まりの悪さ」みたいなものを, つい想像してしまう. 肉体的・精神的な負担の軽重とは別に, 仕事には「歩留まり」があるように思うのだ.

 彼の仕事は「髪を切ること」だ. 髪型をひとつの自己表現のように見なして, あれこれ註文を付けながら整えていく, そういうお客さんもいないことはないだろう. そういう仕事は技術も必要だし大変だろうけれど, そのために培った技術でもあるわけで, トータルとしての歩留まりは悪くないように感じる.

 もう少し続けると, 歩留まりの「良い」仕事の一例は農業だ. もちろん天候をはじめとするリスクはあるし, 肉体的な負担も大きい大変な仕事だけれど, 基本的には懸けた手間に応じた分の上がりが出て戻ってくる.

 しかしぼくの髪を切るのは, そういう意味で言うと, あまり歩留まりの良い仕事とは言いかねる. 言い換えれば, ぼくは理髪店の良い客ではないということだ.

 森村誠一の短編に『殺意の造型 (ヘア)』という作品がある. 理髪店での髭剃り中, カミソリで頸動脈を切って客が死んでしまう事件が起きる. 単なる事故かを調べるうちに, 刑事は理容師に髪を切ってもらうようになるのだが……という話だ.
 理容師は「刑事の頭が素晴らしい」と絶賛する. 形も髪質も一級品で, この頭でなら自分が思うがままの「作品」ができると言い, 実際に思い通りの作品を作って刑事に与える. 刑事は刑事で, 理容師に悪意がなかったかを確かめるために, 彼の「作品」を毎回めちゃくちゃにかき乱して散髪に通う. どっちもどっちの「アブナイ人」である.

 悪意こそないけれど, ぼくは髪型にはさほど頓着しないから, 手前の頭で「作品」を作られても弱る. 困る. 正直に言って, たぶん彼のお客さんにはそういう人が多いだろう. 彼がいくらか言ったところで, ぼくの意識が劇的に変わることはあるまい.

 だとするなら, 彼の仕事は, ずいぶんと歩留まりの悪い仕事ということにはならないか.

 尤も彼の仕事ばかりではない. ぼくの仕事も, 歩留まりがいい仕事とはとても言えない.

 もうひとつここで気になるのは「歩留まりの悪い仕事は, 手を抜ける」というのもまた事実だという点である. 実際, 頓着しない人間の髪型なんて多少雑でも構わないとは言える. 手を抜いても抜かなくても同じお金は入ってくる. 一方で, 全力を尽くしてもそれが何かを変えることはほとんど期待できない. 何とも難しいところだ.

 数学を教える仕事もまた, 歩留まりのいい仕事とは言えない. まともにやればやるほど, 教える側の負担は増すばかり. 学生はこっちの気持ちを知ってか知らずかのほほんとしている. 思うたびに師匠には平謝りしたくなる. 恥ずかしいことばかりである.

 しかし, だ. いくら芽が出ない芽が出ないと嘆いても, タネを蒔かないわけにはいかないのだ. そこから芽が出ると信じて蒔くしかないのだ. 数で測るものではない. 万にひとつの芽が出たならばそれを喜び, そうなると信じてまたタネを蒔くのだ.

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