生きること、学ぶこと


(問い)心と身体が一体であるという意味は?


ここから始める。
人は本質的に、接続よりも切断、差異よりも無関心、関係より無関係である。だから、再接続や再肯定、再関係を探求する。これを「個体化」論として考えるのがポスト構造主義である。個体化とは器官なき身体をつくることである。浅田彰はツリーからリゾームへの転換という。(「働きすぎてはいけない」千葉雅也)
中村桂子は、その身体生成のやり取りの原点に受精卵を置く。周りに細胞、組織が形成されていく生命誌である。これは次回書く。

ドゥルーズはスピノザの身体モデルを次のように説明する。体が自分の認識を超えているなら、同時に思惟も自分の持つ意識を超えている。自分の持つ力能を掴むことができるようになれば、同じ運動によって、自分の意識の制約を超えた、精神の力能を掴むことができるようになる。意識は、結果を手に入れるが、原因はわからない。自らの体と心に起こることの結果しかわからない。仕組みの理解が、自分の持っている認識の、あるいは意識の秩序内にとどまっている限りは、何もわからない。三重の錯覚がある。結果と原因を、自分の無知から、逆なのに取り違えることで補おうとすること。意識は、その結果こそが目的だったと考えるようになる、自由裁量の錯覚。意識が自分の力では起こり得ないと考えて、神の力に頼る神学的錯覚である。(「スピノザ」ドゥルーズ)

過日、難病指定である自己免疫性障害の多発性脱髄神経炎について触れた。本来は身体を異物から守るべきタンパク質が裏切って正常な細胞を攻撃する。ニューロンの軸を守る鞘を痛めつけて剥離させてしまう。ミリエン鞘の脱落である。蛋白細胞解離という。これが神経の中枢か末梢か、あるいはその両方かによって身体へのダメージは大きく異なる。この医療分野の進歩は少ない。難解なのである。

10年前の治療方法と殆ど変わらない。治療のファーストラインは3つしかない。免疫グロブリンによる抗体作り、大量のステロイド投入による叩き(ステロイドパルス)、血漿交換によるタンパク質の濾過である。結果はやって見ないとわからない。タンパク質を特定できないことから予測がつかない。

スピノザが、血液を例に、身体に合一しない毒なるものは、身体の構成関係の一部を破壊し、運動と静止の構成関係が別のものに置き換えられるのであり、それ自体の悪が存在するのではない。毒が悪ではない。関係性であると言っている、ことが自分の小宇宙で現実になっている。幼児から死ぬまで構成関係は変化する。内部の構成関係の一部が裏切ることもある。自己免疫障害や自殺など。

ペンローズは、脳の専門家ではないが、コンピューターのアルゴリズムが脳の意識活動を超えることはないことを、また未来の量子力学の可能性と不可能性を述べた。ニューロンがつながっていくシナプス間隙が絶えず変化していく様(スピノザの運動と静止の様相)や脳の不可思議な様態について、この神経炎を心身一体の問題として想像させてくれた。(「皇帝の新しい心」「心の影1」ペンローズ)

知人が正月にネパールへ行き、アーユルヴェーダの医師と会った。どのように治療するのかとても興味深い。

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