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脳出血(*_*)でも、前進だ③

しばらく寒い日が続いていたけれど、ここ数日寒さが和らいでいる。
私は、一人で電車に乗って大阪のクリニックに出かけた。
電車に乗る時、降りる時、片手に杖を持ちながらホームと電車の隙間に落ちないように必死で電車の扉の端にしがみつく私を見て、ほとんどの人は私にぶつからないように、やさしい視線を向けてくれる。降りる時に「ここ持ちなさい。」と腕を差し出してくれる女性もいた。
優先座席に近い扉から乗ると、優先座席に座っている人は、手をこまねいて私を座らせてくれる。
 
退院後、一人で車を運転して出かけることは、それほど大変ではなかった。それは、私の車がオートマ車なので、左の手足が不自由でも右の手足ががんばれば問題なく安全運転ができたからだ。でも、電車に乗るのは、最初は怖かった。
入院中に、外に出たら、優しい人ばかりではないから、気を付けなさい、弱いものを狙ってぶつかってくる人もいるんだよ、と理学療法士さんに心配されアドバイスされたけれど、今のところ、優しい人に助けられて、そのことに感謝しながら、脳出血後の新しい世界を広げることができている。
 
大阪のクリニックは、精神科クリニックだ。でも、私は、精神に病があり、そこに行くことになったわけではない。私が脳出血の後遺症として苦しんでいる「痛み」の治療は、実は精神科の領域でもあるとそのクリニックの医師に教えてもらったからだ。実際、今、主に治療を担当してくださっている脳神経外科の医師は、最初はうつの治療薬をいくつか試しに処方してくれていた。でも、どれも私が合わなくて副作用がきつかったので、今は、うつの薬以外の薬で種類を変えたり、少しづつ量を増やしたりで、根気よく付き合ってくださっている。
大阪のクリニックに行くようになった経緯は、あとで書こうと思う。
 
私が脳出血を発症し、幸い出血が広がらず開頭手術の必要がなくなり翌日に一般病棟に移った時に、理学療法士さんよりも先に、私の病室に病院の職員らしき男性が現れた。おそらく渡された名刺には心理療法士と書いてあったと思う。彼は、それまでの私の仕事や、家庭での様子を世間話の雰囲気で話して15分ほどで出ていったが、正直に言うと私にとってこの時間は無駄な時間だった。そのあとに現れた理学療法士さんや作業療法士さんと話していると、私の心の中に希望がむくむくと湧いてきたが、心理療法士さんとの時間は、何か商品を買うよう勧められているような、または、宗教への入信を勧められているような感じがして、まず警戒心が湧いてしまった。私が素直でないためかもしれないが、私の心が弱っているという前提で話しかけられているのを感じたのだ。
その後、夫にそのことを話すと、救急車で運ばれて、私を担当した脳神経外科医は、私が仕事中に発症し、それまで大きな病気をしたこともないのを聞いて、私のこれからの人生が180度変わってしまうことで心が病むだろうから、心理療法士を担当に付けますと、発症当日に夫に告げていたと知らされた。夫も同意して、お願いします、と言ったそうだ。
私は、それを聞き、電話ではありがとうと感謝したけれど、最初からこれは嫌だった。私が深い穴に落ちてしまったから、助けてやるよ、みたいな、押しつけがましさを感じていたからだ。脳出血したら、みんな下に落ちるのが当たり前で、その後の人生は人に救ってもらわないと、助けてもらわないと、生きていけないよ、というような決めつけを感じた。
 
 その後私が病院で辛い目に遭っている時に、その心理療法士は全く役に立たなかった。ひどい目に遭ったと主張する私を、責める病院側に立つとしか思えなかったからだ。彼が何かをしたり言ったりしたわけではないが、私の心に寄り添うような姿勢は感じられなかった。病院は、彼が男性だから私に合わないと判断したようで、その後若い女性の心理療法士に交替したが、私は、彼女が私の病室に来る前にお断りした。

病院で起こった不快な出来事を、私が男性のスタッフを受け入れない変わった人であったためとして、病院が私に責任を押し付けていたことは、百日間最初の病院で我慢して、やっと転院できた病院の対応で明らかになった。
転院先のリハビリ病院で私を担当することになったのは、その病院で数少ない女性の理学療法士さんで、シフトによってお休みする時に男性が代わりに入ってもよいかと、転院初日に、かなり心配そうな顔で尋ねられた。それで、私が前の病院では理学療法士さんはずっと男性であったことを告げると、驚かれたので、その理由を教えてほしいと私が強引に聞き出した。すると、言いにくそうに、Rさんについては、前の病院から男性NGという意見が付いていたので、受け入れにかなり慎重な準備が必要だったと教えてくれたのだ。
前の病院を去る時には、もう嫌なことは忘れて、病院で親切にしてくれたことに感謝したいと思っていたけれど、結局、転院を希望しても何か月もリハビリ病院に断られていたのは、私が男性スタッフを受け入れない変わった人であるという意見を前の病院が付けていたせいだということが、その時に明らかになったのだ。

「精神科」医院に行くことになったことを書こうとしていて、つい嫌なことを思い出してしまった。これは、心の後退だ。書きたいことは、前進だった。話を戻そう。

私の退院後の心を支えているもの、それは、最初は脳出血の発症時に楽しんでやっていた、在宅勤務の仕事に戻れるということだった。
でも、その後に私の心を大きく支えてくれているものについては、まだここに書いていなかった。それは、心地よく、私をふかふかに包んで海の上で波に揺られて眠ってしまいそうな安心感を、今でも与えてくれている。でも、頼りすぎてしまうと、その波が引いた時に、私の心にぽっかりと穴が開いてしまって、海の底に沈んでしまうような恐怖が心の隅にある。だから、私はいつも自分でこの波を泳いでいける心の強さを持っていようと思っている。

回りくどくなってしまった。私の心を支えてくれているのは、45年ぶりに開かれた、高校の同窓会で再会したり、初めて交流することになった同級生たちだ。
退院の数日後、病気前にはよく行っていたスーパーに一人で行った。入り口の前で携帯の着信音が鳴り、そこにあったベンチに腰掛けて電話に出ると、高校の同級生だった。11月3日に、学年の同窓会があるという。その時は6月。まだまだ先の話だ。でも、私は行くと即答した。私はその5ヶ月前に死んでいたのかもしれない。でも、生きている。せっかく生き延びたから、生きているからこそできることをしたい。懐かしい友だちに会えるなら会いたい。なんという、素敵なタイミングだろう。高3の時にクラスが違っている友だちの多くは、45年間会えていないのだ。

その後、ここに書ききれない奇跡がいくつか起こった。
そのうちの一つが、大阪の精神科クリニックをしている同級生の医師との再会だ。彼は、同窓会当日に、150人以上の参加者の中から私を探し出してくれた。そして、20年以上前に私と私の子どもに起きていた苦難の相談を受けながら、力になれなかったことを詫びて、今度こそ、私の力になりたいと言ってくれた。
私は、昔、友だちから勧められて彼に電話をかけ、私の相談内容が彼の専門外だったため、電話が世間話で終わっていたことを、何も気にしていなかった。でも、彼の熱心な申し出をありがたく思い、今回はしばらくお世話になることにした。
そういうわけで、私は、大阪にある、彼の精神科クリニックに月に一回行っている。
今は、平日にフルタイムで仕事をしているので、土曜日に行く。その日は、私にとって、一人で私の住む田舎町から都会に行く、冒険の日だ。
初日は、彼が、駅まで迎えに来てくれたが、開業医だしベンツで来るのかと思えば、自転車で現れた。そして、後ろの荷台に座れと言われ、若い時には抵抗のなかった、今で言うニケツでクリニックに行った。2回目からは、ニケツをご遠慮して、15分の距離を、リハビリと思って一人で歩いている。

病院で起きた不快な出来事は、私にとっては振り返りたくない、忘れ去りたい過去だ。嫌な過去は汚い箱に閉じ込めて、ポイッと捨てたいと思っていた。
一方で、私の中には、病院で起きたこと以外にも苦しかった過去の記憶が多くある。
クリニックの治療では、痛みを和らげるためには、それらの嫌な記憶と正しく向き合う方が良く、悔恨のポイ捨てはよくないということを教えてもらった。相手は同級生といえど、守秘義務のある医師だ。治療目的で存分に腹が立った話を聞いてもらい、スッキリさせてもらっている。

同窓会で出会った同級生たちとの交流で思い起こした過去は、間違いなく、私が前進するための安心感を与えてくれている。
後ろを振り返ることは、悪いことばかりではない。素敵なこともいっぱいあるし、思い返してみることで、輝きを取り戻すこともある。
あまりにも大切で貴重だからこそ、消えてしまうことが怖くて心のなかにしまっておこうと考えていたその経験が、今も私を勇気づけている。

精神科の医師をしている同級生だけではなく、今も多くの同級生との交流は続いている。
現実の交流や昔の思い出により私の心を満たす幸福感が消えてしまうのを怖れるのをやめよう。
幸福感は、心の中で安心感に変わる。安心感は消えることはなく私の心を包み支え続ける。
安心感があるからこそ、私は一人でも冒険ができるのだ。
私はまだまだ前進する。さあ、どこに冒険に行こうか。
私を応援し、支えてくれている人たちに感謝することを忘れずに、これからも歩み続けたい。


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