見出し画像

紙の本、それは圏外への切符

2021年8月末にQuizKnockにハマり、気になる動画を片っ端から見続け、メンバーの書いた文章を探しては読んでいるうちに、こちらの書評を見つけた。

河村さんは、動画のメンバーの中でも特に言葉選びが面白い(と私が感じている)方である。そんな河村さんが書評の第1冊目に選び、「これほど読後に日本語を使いたくなる小説は無い」と評した本が気になって、すぐに図書館で予約した。

そして1か月ほどかけてゆっくりと300ページ越えのハードカバーの本を読んだ。文庫ではなくハードカバーの本を読み切ったのは随分久しぶりな気がする。この本は、主に湯舟に浸かりながら読み進めた。途中に原稿の修羅場を挟んだので、読めない週もあった。

それでも半分を超えたあたりから物語の吸引力にひっぱられ、のこり四分の一は今まで溜め込んだ力を解き放つかのように加速して、一気に読んだ。このラストスパートの集中が、読書の楽しさだよなあ、と静かに興奮しながら、紙の上のインクを目で追い、そろりとページをめくり、紙の質感を指先で感じ、終わりに向かってぐいぐいと進む物語に振り落とされないように、目を開いて、ごくりと唾を飲み、読んだ。

ページが左から右に流れてゆく。右手に紙の重みが増してゆくにつれ、左手が掴んでいる紙の束は薄くなる。右手にのしかかるのは過ぎ去った時間だが、左手で触れているのはまだ見ぬ未来だ。
残りページの薄さを左手の感覚で認識し、その心許なさにドキドキするのも紙の本ならではの楽しみだ。左手の負担が軽くなってゆくにつれ、明確に終わりは近づく。そしてあるとき突然、文章の続きは途絶え、真っ白い紙だけが目の前に現れる。雪原の、誰のものかもわからない足跡を辿り歩き続け、突然それが途切れたような切なさ。その先はただただ真っ白い雪が世界を覆っていて、先ほどまで感じていた人の気配は消えている。

ああ、終わってしまったのだ、と空白の紙をぼんやり眺めたり、最後の一文をなぞって反芻していると次第に現実世界に意識が浮上する。紙の本を持っている自分、その肉体、自室のベッドの上、空は夕方、インターネットが張り巡らされた2021年の世界。

毎回、浮上して気付くのだ。
紙の本の、断絶された世界に潜っていたのだと。
紙の本にはリンクがない。文字をタップしても、ページをスライドしても、新しい世界に飛ぶことは無い。ネット上で何かを読んでいると、反射的に何かを検索したり、SNSを開いたりしがちな自分には、この断絶がありがたい。紙の本は電波の届かない「圏外」だ。

断絶された世界はと外への道が封鎖されているので、集中力が保たれる。
この「集中」は非日常で、とても贅沢で心地よい。
贅沢な時間を味わえるのにも関わらず、内容にのめりこめるような「紙の本」という切符さえあれば断絶に到達できるのだから、気軽で平等で有難いことだ。

ぱたり、と本を閉じるのは、紙の本ならではの体験だ。同時に物語も閉じられる感覚がある。

そしてそのままベッドで仰向けになり、天井を呆然と見上げる時間が私は好きだ。
残念ながら読解力が良くはないので、作者が物語に込めた意味のいくつかを取りこぼしている気もする。読後に考察や書評をネットで調べて、「そういうことか!」と驚くことも多々ある。(もっと色々なことに気づけるようになりたい)
けれども、ラストスパートを駆け抜けた熱の余韻に浸りながら、じわじわと脳が温度を下げて現実にもどってゆく時間は、私でも十分に味わえる。

普段インターネットにどっぷり浸かって生きているからこそ、紙の本って良いなあと改めて感じた。長編小説を読み切って、もっともっと読書がしたくなったし、完走できたことが嬉しい。

なんか熱のこもった記事が書けた。しかも脇目もふらず、このページだけを表示したまま、集中して書けた。
「これほど読後に日本語を使いたくなる小説は無い」っていう河村さんの書評、その通りじゃないか。


そういや前にも読書に関するnoteを書いたな…と思い探してみると、あった。

読むと、我ながら面白いこと書いてて、にやりとした。


この記事が参加している募集

読書感想文