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【小説】人欲(8/10)

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 アイはわたしを気遣って毎日会いに来てくれるし、夕飯をつくってくれる。アイのつくる料理は見栄えが悪いが、味は悪くない。食事というよりエサ。それでもよかった。ひとりのときは食事に気を遣わないから「食事をする」というモードに切り替えて食事をすることが大事なんだと思う。

 先日改修した「イダテンフード」プログラムにミスがあり、再度リリースすることになり、きょうは謝罪行脚の一日だった。行脚と言っても直接謝罪に行ったのは近郊の二件だけで、ほとんどは電話とウェブミーティングでの謝罪だ。使い勝手の悪さを散々責められ、顧客から改善案を出される始末だ。この機能企画したのわたしじゃないんだけどなと思いながらもこんなこと思っても仕方ないし、内臓に活を入れながら謝罪をする。

「寿命が三年縮まりましたね」という本高のことばにうまく返せず無視した。

 このことよりも「きょうはごめんね行けない」とアイからメッセージが入っていたことのほうが辛かった。

 きょう会いたかった。きのうよりも、おとといよりもきょう。

 こういうとき、アイと付き合っていなければ確実にレズビアン風俗のサイトを見に行った。

 わたしはあんまりひとりでするのが好きじゃない。わたしが欲しいのは快楽ではなく、他人の肉体だからだ。

 はじめて、交際の障壁というものを感じてしまった。わたしはアイを独占したいから、誠実であるために浮気はしなかった。

 性欲を誤魔化すにはトレーニングがいいと言う都市伝説を信じているから仕事の帰りに大崎駅から徒歩で行けるジムに寄り、筋トレをし、バイクを漕いだ。性欲は誤魔化されるどころか、股が擦れてよりいやらしい気持ちになる。

 木曜の夜は土日よりも利用者は少なく、見渡す限り男性は二名、女性は二十代くらいの三名居た。

 シャワーを浴びてジムを出た。

 なぜきょう、アイは行けないと言ったんだろう。

 反則かなと思いながら、家に帰らず駅に向かった。それから山手線新宿・渋谷方面行きに乗り、隣駅の五反田で下車した。

 もし鉢合わせたら、とこころの準備をした。「仕事でたまたま五反田で飲み会があって」とでも言うか。ジムでほとんど化粧が落ちている。嘘くさいかな。

 改札を出てアイの住んでいる東五反田のほうに向かった。わたしの家と同じ品川区の、たった数キロの距離なのに大崎の百倍ひとが多い。音と光の量も多い。五感が刺激される街だ。

 浮かない顔のアイが、短髪で体格の良い、おそらく女性に肩を抱かれながら駅に向かって歩くのが見えた。

 思わず物陰に隠れてしまった。彼女らの同行を追うと、アイは改札の外で立ち止まり、相手は改札の中に入っていった。ここでわたしが出て行って何か言う勇気はなかった。そのまま雑踏に紛れて、アイが視界に入らないようにして、時間が経過するのを待った。

 会いたいと思えば会えるという言霊はあながち嘘ではないのだろう。でも、こんなものを見たくなかった。アイの表情から察するに、あれは例の借金元カノなのではないか。

 人波を交わしながら改札に入り、山手線品川・東京方面行きに乗り、大崎で降りた。

 ひとが全然いなくて空気が澄んでいる。それでも電気の光が眩しい。半寝状態のビルから漏れる光と、木々に巻かれた照明がうっすらと放つ光の中、ポケットから取り出したスマホのブルーライトを目を焼き付くすほど強く感じた。

「会いたい」と打てば会えるだろうか。でも、会ったところで何を話せばいいのかわからない。

 あんなに、レズビアン風俗嬢の体を貪りながら過去を想像してきたくせに、いざ、恋人の過去を目の当たりにすると想像力がショートする。

 家に帰りきちんと化粧を落とし、もう一度シャワーを浴びて肌のケアをしてベッドに入った。

 翌日、訪問もなければウェブミーティングもないのでパジャマのまま午前の業務を家でした。家に居ても気を散らしてくるひとがきょうは来ない。

 そのまま冷蔵庫に残っていたチョコレート菓子とヨーグルトを食べ、ろくな昼食を摂らなかった。

 昨日のエラーの謝罪文を仕上げ、本高の資料の見直しと、新しい企画の構想で一日が終わる。きょうは全然電話も鳴らないし、びっくりするほど忙しくない。十七時にアイが家に入ってきた。

「ほのちゃん、きょうは家なんだ。お休みだった?」

 わたしの姿を見てそう思うのも無理はない。

「いや、これでも仕事してる」

「ほのちゃんはすごいなぁ」

 いつも通り食パンくらいの弾力の声。ただ、笑顔があんまり澄んでいない。両手にエコバッグを持っていて、そのままキッチンに立った。

 その物音を背にわたしはメールを返す。また総務の前沢から些細な書類不備の叱りのチャットが飛んできた。お客さんから来た質問を開発メンバーにチャットを投げる。背後から野菜をむしる音がする。村田さんから企画の相談のチャット。樫木からの嫌味のチャット。背後から何かを炒める音。カスタマーサポートからの対応レポートを読む。サラダ油の匂い。

 しっかりと時計を見て、十八時ちょうどに勤怠報告のチャットを入れ、パソコンをシャットダウンした。もう、きょうは文字を見ない。

 テレビの前のローテーブルにレタスチャーハンの乗った皿がふたつ並べられた。

「きのう」とアイが口にした。虚ろな目をしていた。彼女の瞳がこんなにも虚を表していたのは初めてだった。

「あ、いや、食べよ」

 両手を合わせ丁寧に「いただきます」というから真似をした。そういえば、昼に食べたものに対してこんな敬意、払わなかったな。いままで全然そんな敬意払ってこなかった。

「食べながら話そ」

 なんの話をされるのか、だいたい予想ができる。アイに隠し事をしているのは嫌だったが、自分のこころの準備のためにもきのう行ってよかったのかもしれない。

「まず、食べるね」

 アイは食べ物に敬意を払ったものの、爆速で口に運ぶ。いただきますと言ったことにより粗雑に食べることを許されたかったのかもしれない。

 レタスチャーハンを四分の一ほど食べ終えた後「前に付き合ってたひとの借金を返すために風俗をやっていたと言ったでしょう」と言った。

「そのひとが、きのう昼に会いに来て、嫌だったな」

「いまの家の住所知ってるんだ?」

「うん。ずっと同じとこ住んでるから」

 引っ越せばいいのにと言おうとしてやめた。引っ越しは労力がかかる。それに、もしかすると安定職についていないから会社員のわたしよりも家探しに苦労するのかもしれない。

「何しにきたの? また借金?」

「うーうん」

 わたしも半分くらい食べたけど、美味しいとか不味いとかぜんぜんわからなかった。味付けの問題ではない。

「もう、借金とかしないから、ヨリを戻したいって」

 アイの目が潤んでいた。これが何を意味するのかさっぱりわからない。

「アイはどうしたいの?」

「絶ッ対嫌。わたしが何よりも嫌だったのが、罪悪感なくそんなことを言ってきたことで」

 アイはローテーブルに皿を置いた。

「わたしが、好きで風俗なんてやってたとでも思ってるのかなって」

 風俗なんて、だなんて言わないで欲しかったけれど、やっていた側からするとそういうことばが出てくるのも無理がないのかもしれない。客は風俗嬢を選べるが、風俗嬢は客を選べない。後々NGリストにぶち込むことができたとしても、一回目は選べない。あの日のわたしの言ったことも無神経に感じられただろうか。

 忘れようとか考えないようにしようとか言ったところで、忘れることも考えないようにすることもできない。だからこれも意味のないことだから言うのをやめた。

 しかし、自分のつくった借金を、自分の彼女に体を売らせて返させるなんてなかなかの外道だ。いや、そのひとも、体売ってたのかな。知らないけど。

 ほとんど進まなかったチャーハンの皿をローテーブルに一旦置いた。

「アイが素敵なひとだからヨリを戻したいと言いたくなる気持ちはわかるよ。でもわたしはアイの彼女としてもうそいつに近寄らせたくないな。ずっとウチに居ていいんだよ」

 これがわたしの精一杯だ。

 アイはわたしの肩に頭を置いた。

「ほのちゃんは、わたしのどこが好きなの?」

「え?」

「顔? 体? 中身なんて、わからないでしょう。わたし、全然自分の話、してないし」

 確かにわたしはアイからほぼ何の情報も貰っていないに等しい。

「なんでわたしのこと好きだなんて言ったの」

 アイがそれに対し敏感に感じているとはよもや思わなかった。

「運命なんてことば、イタすぎるかな。でも、アイを見たときにほかのひとと違うって思った。わたし、好きなタイプってなかったし。でも、アイを見たときに絶対に付き合いたいって思った」

 アイは鼻から長い息を吐いた。お気に召さなかったのかもしれない。

「ごめん、なんか、ちゃんとしてなくて」

「うーうん。嬉しいよ」

 わたしが理想、アイの権化と思ったアイもひとりの女性として、ちゃんと形がある。アイの“ほんとう”が積み重っていくことにうっすらと背汗をかく。

 アイは、いままで何人のひととしたんだろう。いままで何人の恋人が居て、誰とどんなところに行ってどんな夜を過ごしたんだろう。わたしがレズビアン風俗でお金を遣ったり、一晩中仕事に追われたりしていたとき、アイは誰と何をしていたのだろう。

 なんでわたしはよく知りもしないこのひとと一緒に居るんだろう。

「アイは、なんでわたしに付き合おうかって言ってくれたの?」

 それを知ったら死んでしまう気がした。だから触れないようにしていた。この箱はパンドラの箱ではないし、すべての災難が出た後に希望が残らないとわかっていたから。

「わたしが出会ったひとのなかでいちばん、ほのちゃんに欲がなかったから」

 わたしの想像の空間に存在しなかった答えで、驚いてしまった。

「わたしなんて欲だらけだよ。むしろ、欲でできているような人間」

 アイは真顔のままわたしを見つめたい。顔全体が深い夜のようだった。

「それは、あなたが人間を知らないだけ」

 柔らかいひとだと思っていたアイが急に聡明、それどころか全知全能の神のように思えた。

「人間ってもっと、汚いよ」

 遠回しに欲がないわたしのことを綺麗だなんて言わないで欲しい。わたしは欲に満ちている。欲張りだ。いつも飢えているわたしを否定されてしまったら、わたしはほんとうに何もない気がした。

「みんな誰かに肯定されたいのだし、認められたいんだよ。みんな自分の話ばかりするし、体だって一回したらもっともっとって激しいことや良いサービスを求められる。でも、ほのちゃんは違ったから」

「いや、アイが欲しかった。アイに触れてたかった。アイを独り占めしたいと思ってたよ」

 アイは小さく「でも」とこぼした。

「別にそれ、わたしじゃなくてよかったよね。わたしである理由が、ないんだから」

「理由はないけど、アイがいい。アイがいいって思ったっていうのは理由にならないかな」

 アイは一体何を言って欲しいのだろう。だんだんとこういうものはすごくめんどうくさいと思い始めてきた。この感情に触れたとき、これってわたしが避けてきたものだと気づいた。

 わたしはずっと「いい自分」を演じることで、誰にも真意を見せず、深い関係を作ってこなかった。だから、「うわべの友人」はたくさんいるけれど、真実を話せるひとはひとりも居ない。

「わたしのこと好きならもう少しさ、わたしのこと知ろうとしてよ」

 アイはそう言って立ち上がった。

「わたしのこと、全然訊こうとしないんだもん」

 アイを想うとき、いつもアイの過去にいたわたしのような誰かの存在を嗅ぎとってしまう。

 ごめん、とことばの唇の形は思いつくが声にはならなかった。

「何も知らないで好きで居ようなんて、結局わたしっていう容れ物が気に入っただけでしょう」

 よくわからないが、怒って帰ってしまった。ほんとうによくわからない。ここでいつも言われる「女って」ということばを思い出す。こういう面倒くささに「男」も「女」もない気がする。

 まったく腹落ちしない。とりあえず、皿をシンクに持っていった。ビニール袋に残飯を入れ、皿に水を浸した。

 確かに理想のアイで居てほしくて真実を知りたくなかった。全部を知っても好きで居る自信があんまりなかった。例の元彼女は、アイのことどこまで知っていたんだろう。

 もうきょうは文字を見ないと決めたのにパソコンをひらいてチャットを眺めた。わたしの名前にメンションがついているメッセージがないか探した。なかった。忙しくないことに喜んでいたくせに、少しだけ誰かに必要とされたいと思った。

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