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【小説】人欲(7/10)

■最初のエピソードはこちら

 アイと付き合いはじめてからはほとんど出社するようになった。わたしの顔を見るたび前沢に「きょうも出社なんですね」とストレスをぶつけられるが、幸福感がすべて無効化してくれる。

 家に帰り、誰かが待っていてくれるなんてこと、いままでなかった。悪くないなと心底思った。

 アイがいるとき、ぴったりとくっついて過ごした。

「今度のほのちゃんのお休み、どこか行きたいなぁ」

「いいよ。どこ行く? 映画とかいまあんまりおもしろいのやってないよね」

 わたしがそう呟くとアイが「あ」と声を漏らした。

「小劇場おもしろいよ」

「小劇場?」

「うん。舞台。行こうよ」

 彼女のことばに、過去、彼女の近くに居た誰かの存在を感じてしまう。胸の中に砂嵐が巻き起こる。

「うん、行こう」

 アイの耳の裏にキスをした。

 過去を塗り替えることができないのであれば、わたしがアイの過去の誰よりも勝ればいい。勝らないといけない。

 ゆっくりとアイを押し倒し、彼女の顔を上から見おろす。好きだ。嫌いなところがひとつもない。二重の大きな目だけでなく、少しだけ曲がっている顎も、丸い鼻梁も好きだ。

 土曜日に新宿の駅ビルでウインドウショッピングをして、タイ料理店で昼ご飯を食べた。わたしが奢ろうとするとアイは自分の分は払うと言った。またアイのことを好きだと思った。

 それから山手線の池袋・上野方面行に乗り、巣鴨で都営三田線に乗り換えた。電車の中でもわたしたちは身を寄せあった。裸で体を重ねなくても、呼吸や放っている体温だけで好きなひとの存在を感じるのは幸せなことだ。

 高島平の東口改札を出て、最初の信号を左に曲がり少し歩くと劇場スタッフと思われるひとが立っていた。大きい看板があるわけでもないこの劇場にすんなりとたどり着いたから、やっぱり誰かときたことがあるんだろう。アイと一緒にいるときにこころがギスギスするのが嫌だ。

 アイが受付で名前を言い、チケット代を支払った。渋谷にある大きい劇場なら大学のとき友人と行ったことがある。そのときはコンビニで買ったプレイガイドのチケットだったから、こんな風に名前を言って入るようなものに行ったのは初めてだ。

 入場時に配られた別の公演のフライヤー類を眺めるアイに話しかけず、ステージを見た。

 大きな舞台装置はなく、長机がふたつ、椅子が四つ並べられていた。

 客入りは悪くなさそうだった。土曜日だからだろうか。平日はどうだろうか。小劇場が好きなひとをターゲットに企画を立てるとしたらどういうものがいいだろうか。こころに隙ができると仕事のことを考えてしまう。

 舞台はだいたい九十分くらいでオーディションをテーマにした芸能の話だった。内容としてはめちゃくちゃ面白いわけでも、つまらないわけでもない。そこそこに楽しめた。映画と比べると「無い」ものを想像する楽しさがあるのはいい。そして、役者の熱演を間近で感じ、直接声を自分の耳で感じるのは悪くなかった。

 二時間パイプ椅子に座っていた脚で地上へ繋がる階段をのぼるのは一苦労だった。

 地上に上がってすぐの建物のくぼみになっている部分に男が二人話していた。向かいの車道からハイライトの車が走ってきて、一瞬何も見えなくなった。目が元通りになるまで何度も瞬きを繰り返した。景雪だ。

 わたしの視線に気づいた景雪が目を見開き「ほのかちゃん」と手を挙げた。わたしは縫い付けられたように動けなかった。

 彼は話し相手に「ちょっとすみません」と会釈をし、わたしに駆け寄ってきた。

「久しぶり。ほのかちゃんもこの舞台観てたの?」

 これはわたしの幻だろうか。いや、最後に見たときより確実に成長している。成長、なんて良いことば過ぎる。疲れが顔に出ている。目の下の皮膚が少しだけたるんでいる。最後に会ったのいつだ。高校卒業してから会ってなかったんだっけ。ほとんど記憶と変わらないのに、経年劣化ということばが似合う。

「うん。びっくりした。びっくりして、ちょっとわたし、声出なくなったんだけど」

 景雪に相手にもすんなり嘘が吐けて営業職やっててよかったなと他人事のように思った。

 景雪はアイの存在に気づいて「こんばんは」と笑いかけた。

 そういう愛想がいいところも虫唾が走る。

「この舞台、ぼくの小説が原案なんだ」

「え?」

 知らなかった。景雪の情報を仕入れていないわたしが知るはずもないし、原作とタイトルが違ったなら絶対に気づくはずがない。

「懐かしいなぁ。びっくりした。高校卒業してから一回も会えてないもんね」

 なんでこいつは、こんなにすらすらと嬉しそうにことばを並べられるのだろう。

 劇場から出てきたひとが景雪に声を掛ける。

その隙に「じゃあ」と言い捨て、早足で去った。早く、景雪から見えなくなるところに行きたくなった。

「ほのちゃん」

 追いかけてきたアイに腕を掴まれるとそのまま、立っていることができなくなって、アイの体に身を任せた。

 呼吸がうまくできない。肺が痙攣している。空気がからまわっている。

「ほのちゃん、大丈夫?」

「大丈夫」と大きく息を吸い「ごめんね」と息を吐いた。

 それから電車に乗った。都営三田線は、高島平の隣の西高島平が始発だから、高島平から乗るとガラガラだった。わたしは完全に体をアイに預け、ただ、浅く呼吸を繰り返した。目を開けたまま寝てるようなもの。

 巣鴨や大手町で乗り換えたほうがよかったが、そのまま目黒まで乗り続けた。アイはひとことも話さなかった。

 目黒駅からなら家までタクシーで十五分もかからないだろうが「休んでいこうか」と寝言のように言うとアイは応じてくれた。

 アイがわたしを引き摺ったまま、ラブホテルに連れて行ってくれて、ベッドに寝ころび、キスをした。呼吸が浅いのにキスをすると生き返る。アイから気力を奪っているようだ。

 服を脱がし合い、ベッドで裸になって、乱暴に抱き合い、何度もキスをした。

 アイはわたしのヴァギナの中に指を入れて刺激した。全然イキたくないのに、強制的に昇天すると、ようやく気持ちがおさまった。

 気持ちが上がらないまま一緒にお風呂に入り、お互いの体を綺麗にした。それからベッドに横になった。

「さっきの、景雪って言って、わたしの幼馴染みたいなもんなんだけど」

 天井の照明、知恵の輪みたいに形が歪んでいた。

「というか、わたしの地元って新興住宅街で、だいたいみんな幼稚園くらいから住み始めた子ばかりでさ。町の端から端に住んでるひとん家行っても十分かからないくらいだから町全体が幼馴染みたいなもんなんだけどよね。景雪が別に、特別とかでは、なかったんだよね」

 わたしはみんなに好かれたかった。だから、どんなひとにも優しくしようと努めた。それは親の教育の影響ではない。わたし自身がそうしたくてしていた。

 誰にも嫌われたくなくて、親切にするのがわたしの正義だった。

「景雪って暗くて、暗いっていうか自己主張ができないやつで。でもめちゃくちゃいい子。優しくって。私立中学に行かなければ全員同じ中学校に進級って感じだったから中学も一緒で、高校もたまたま一緒で、一年のとき同じクラスだったんだよね」

 アイの視線を右頬のあたりに感じながら、わたしはそれに返さなかった。

「わたし、いわゆるクラスの中心人物みたいな感じで。ずっとそういう感じで来たんだけど、実は小説家になりたかったんだよね。でも、誰にも言えなかった。なんか、小説書いてるのなんて暗くてキモいって思われないかなって。高一のとき、クラスの陰に居た景雪に、声かけた。ずっと本読んでたから。それで家に呼んで、わたしの書いてる小説読んでもらった。そしたら、すごいねすごいねって。ぼくは小説書けないからって感激してくれて。それでちょっと調子に乗ったっていうのはあるのかもしれない」

 これが人生最大の後悔だ。本心で生きていなかったから、わたしも寂しかったのかもしれない。誰かにこころのうちを少し知ってもらいたかったのかもしれない。

「景雪も、そんなに小説が好きなら書いてみたらいいじゃんって言ったんだ」

 わたしには友だちがたくさん居たけれど、小説の話は景雪としかしなかった。

「高二のとき、同じ小説賞に応募したの。そしたら、わたしは一次も通らなかったのに、景雪は受賞して、そのままプロになった」

 小説家としてのわたしはきちんと生まれる前に死んだ。生き続けることを許されなかった。反骨精神などわたしにはなかった。わたしには才能がないという叩きつけられた事実をひっくり返すほど強くはなれなかった。

「景雪のデビュー作、たしか三十万部とか売れたんだよ。景雪はすぐ学校のスターみたいな感じになった。何よりも辛かったのが、まったく喜べなかったこと。唯一小説のこと話せるやつだったのに。わたしアイツのデビュー作、読んでない。ていうか、アイツの出した本一冊も読んでない。一行も、一文字も。自分がそんなに醜い人間だとそのときまで気づけなかった。日に日に景雪が嫌いになって、景雪を恨んで、憎んで。そしたらなんか男という生き物もキモく思えて。景雪が居なかったら小説家になれたかもしれない、景雪が居なかったら男をこんなに嫌いになることなかったかもしれない。景雪が居なかったら、景雪のせいで、景雪が居たからって自分に降りかかるすべての出来事を景雪のせいにしてきた」

 わたしの努力の起源は、景雪に殺されたわたしを救いたい。そんな反骨精神だった。

 声帯が震え、うまく声にならない。隣を見ると、アイが涙を零していた。お金を払いたくなった。こんな話を聞かせて申し訳ない。でも、彼女はわたしの恋人で、恋人、好き、ならこういう話をきかせていいのか? お金を払わずに? どうしてだろう。好きってそんなに強い? 恋人ってそんな、自分にとって都合のいい存在? 

 景雪が居たからアイに出会えたのに、どうして「そうじゃなかったほう」の世界のことばかり見てしまうのだろう。

 アイが手を伸ばし、わたしの手首を掴んだ。

「わたしは、ほのちゃんが好きだよ」

 アイのことばがどんなに有効でも、いまはそのことばの効果も薄いのだった。

 体を起き上がらせ、もう一度身を寄せた。そして今度は丁寧にキスをした。

 自分の正体が何か、知らない。

 アイと何度体を重ねてもずっと埋まらない。見つからない。それはもうわたしの中で死んでしまって、生き返ることはないもの? この人生ではもう二度と手に入らないもの?

 もう何も考えたくなくて、一生懸命セックスをした。記憶を溶かしたい。アイで全部染め変えたい。

 そのまま宿泊して、日曜日も一日中、わたしの部屋のベッドで体を重ねた。何度愛し合おうとひとつにはなれないが、目に見えない愛を生産し続ける、それは、わたしたちにとってとても意味のある行為だった。

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