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【小説】人欲(3/10)

■最初のエピソードはこちら

 毎朝、タブレットで新聞のチェックをする。前は紙がかさばって捨てるのが大変だったが、全部電子で済んでよい。経済面よりも悩み相談の記事を楽しみに読んでしまう。これをハガキで書くとき、どんな気持ちなのだろう。

 身支度をしてリビングに設置しているデスクに向かい、ノートパソコンを広げ、HDMIケーブルに接続し、モニターに出力する。

「ウェビナーに参加されていない方は今週中に動画を視聴し、テストを受講してください」

総務部前沢から「全体」というグループにリマインドチャットが送られてきた。すっかり記憶から飛んでいた。

 指定のサイトにログインし、映像視聴をする。わたしの会社は「ダイバーシティ推進」に取り組んでいる。なかでも「LGBTフレンドリー」な会社を目指しているそうだ。

 わたしはおそらくレズビアンだと思う。だからと言ってLGBTQ界隈のことに関して関心があるかと言えば実際はそんなにない。この間、訪問先の会社には「ジェンダーフリートイレ」があった。外国では、男女の分かれていない更衣室があるときいた。性差別があっていいはずがない。わたしだって「女だから」と言われるたびに胸が爛れる。でも、男と同じトイレは嫌だし、更衣室なんてもってのほか。認識している性別と、体の性別が違う辛さや、苦労はあるだろうが、認識している性を尊重することが当然な社会になればいいだけの話じゃないのか。というか、なっていないことが悔しい。差別やいじめをしたり嫌味を言ったりする人間に己が低能であるということを知らしめたほうがいい。罰を与えるべきだ。

 性別違和もだが、自分の性別を定められないひとの苦しさもはかりしれない。「無い」ものを「有る」とされ、「有る」としながら生きるのはしんどいだろう。たとえば女性として生まれ、女性としての自覚がないが、自分が男性とも思えないひとがいる。そういうひとがわたしのように「女だから」「女のくせに」「女なのに」とケチをつけられたら、きっとわたし以上に辛い思いをする。想像だけで涙腺を引っかかれる。

 わたしはそういうひとたちのことを想像することができても実際に自分は「女性」であることを自覚し、違和感なく生きている。想像ができても、そのすべてを知ることはできない。そう思ったとき、自分は物凄くちっぽけな存在に思える。

 セクション2の「パートナーシップ制度について」を観てさらに気持ちが沈んだ。こんなもの、同性婚が認められていれば済む話だ。なぜ、同性愛者だからといって、当たり前にあるべきことが当たり前ではないのだろう。わたしは特定のパートナーが欲しいとか、誰かと一緒に暮らしたいという気持ちがないので少々他人事のような目線で怒りが募っていた。

 同性愛を認めたところで、異性愛者のほうが圧倒的多数だ。認めることで国が不利益を被ることなんてないだろう。あまりにもケチくさすぎる。

 映像を視聴していたらイライラが最高潮に達し、観るのをやめた。理解度を測るテストは気が向いたときでいい。

 いくらダイバーシティ推進に取り組み、LGBTフレンドリーな会社になったとしても、わたしは自分の性的指向を会社のひとに言うつもりはない。恥ずべきことだからではない。わたしに関する情報を気安く落としたくないだけだ。

 

 だいたいのレズビアン風俗にはデートができるコースと、性的サービスが受けられるコースが用意されている。

 時間があるときにデートコースを利用してみたいと思うものの、休みの日はジムに行ったり調べごとをしたり、カフェで何もしない時間を作ったりするので意外と時間がない。

きょうは、土曜日で仕事が休み。明子さんと会う。彼女は職場の元先輩で、会うのは三年ぶり。結婚を機に会社を辞めた。

 子どもが三歳になって、旦那さんと留守番ができるようになってきたからということで誘われた。実に光栄だった。

 明子さんはわたしより五年先輩で、わたしが新卒で入社したときから明子さんが退職するまでずっと営業一課の成績トップだった。将来、彼女が管理職になる未来を当然のように見ていたところ、突然の退職。結婚しても仕事を続ける方法なんてあるはずだとわたしは思った。でも、明子さんのことだから何か考えがあって退職したのだと信じ切っていた。

「能力があれば女だからって舐められることはない」「女が男と同等に働ける時代はもう来てる」と彼女はよく口にした。パンツスーツの洗礼されたファッション、ゴールド系のアイシャドウに意志の強さを感じる眉、強く優しい眼差し。そんな彼女のことが大好きだった。

 姿見の前でわたしは何着も体にあわせる。明子さんと会うときにワンピースを着ていくのはなんだか気恥ずかしい。結局いつも通り、白いシャツに黒のパンツにしてしまった。

 明子さんが予約した店は、会社のある品川駅が最寄なので、なんだか仕事に行くような気分になった。休日に品川に行くのは気が重い。品川と大崎は、山手線で一駅の距離なのに、品川は魔境に思える。電車は昼時だからか全然ひとが乗っていなかった。

 唯一の救いが予約してくれたお店が会社と反対口の高輪口だったことだ。ホテルの中のカジュアルレストラン。店に入り、待ち合わせですと告げ、席に案内してもらった。

 わたしの姿を見つけると、明子さんは大きく手を振った。

「松倉、久しぶりー」

 わたしは思わず足を止めてしまった。明子さんの眉が、グレー系で、薄く、並行だ。柔和な印象。子どもの頃、社会科見学で見た角を刈り取られた雄の鹿のことを思い出した。

「すみません、ちょっと感動しちゃって」

 わかりやすく足を止め、笑顔を貼り付けながら席についた。

「もう、すっかり立派になっちゃって。どこのキャリアウーマンかと思ったよ」

「そんなことないですよ。何にします?」

 二部あったメニューのうちのひとつを明子さんに提示し、もう一部でメニューを見るふりをして明子さんを覗いた。

 肌が赤っぽい。ファンデーションでうまく隠せているが肌がちりめん状になっていた。いつも艶系のファンデーションで隙がなかったのに。

「わたしはジンジャエールにする。松倉は飲んでいいよ」

 遠慮すべきか悩んだが、ここでわたしがソフトドリンクを頼んでは明子さんの好意を踏み躙るような気になった。だからわたしはビールを注文した。

 飲み物が先に届いて乾杯してすぐに会社の近況を根ほり葉ほり訊かれた。明子さんは懐かしいなぁと連呼した。そうか、わたしにとってすべて「いま」のことが、明子さんにとってはもう過去なのか。

「どう、新人。イケメン?」

 本高のことを思い出す。正直に言うと、わたしはあんまり美醜に対する審美眼がない。そして明子さんって「イケメン」なんて言うひとだったかな。

「はい、多分」

「何それ」と大きな声で笑った。鼓膜が揺れる。

 チキンのコブサラダとマルゲリータとしらすのピザを注文した。

「松倉が課長になる日も近いんじゃない?」

「そんな、わたしは」

 わたしには明子さんのような豪快さがない。

「わたしも自分が結婚して会社を辞めるとは思わなかったなぁ。ていうか結婚できるとは思えなかった」

 退職するとき詳しい話をきいていなかった。明子さんが話さなかったというのもあるし、わたしも訊けなかった。明子さんが突然結婚して、退職するとはわたしも思わなかった。

「実はデキちゃってさ」

 そんなのうっすらわかっていたことだった。

 サラダが運ばれてきた。別添えのドレッシングをかけて、混ぜて取り分けた。大皿に少しだけ余った。

「そうだったんですね。わたしは、明子さんは復職されるんじゃないかって思っていました」

 そもそも、明子さんが計画もなく妊娠するとは思っていなかった。

「子どもがいるってわかったらさ、もう仕事頑張らなくていいかなって思っちゃったんだよね」

 ピザがテーブルに運ばれてきた。わたしは話を聞きながら切り分けようとしたら、すでに切込みが入っていた。ピザを取り分けるか悩んだが、取り皿だけを明子さんの前に置いた。

「いろいろ考えたんだよね。でも、わたしの理想の子育てをするには、わたしが専業主婦にならないといけないと思ったんだ」

 会ったときから発生した違和感は止まることがない。

 こころに隙間風が吹く。急いで穴を塞ぐ。それでも、明子さんが何か言うたび、鋭く切り込みが入って、風が吹きやむことはない。

 明子さんに似た顔の違う誰かと話しているようだ。

「入社したときはさ、たとえ子どもができてもバリバリ働けるって思ってたよ。でも妊娠したときに、この子のお母さんはわたしだけなんだって思った。たぶん、ピンとこないと思うけどさ、松倉も自分の子どもができたらわかるよ」

「あははは、確かにわたしはまだそこまで考えられないですねー」

 思いきり笑顔でそう言った。わかる。そういうひとがいるのも分かる。わたしには自分の体に命が宿るという感覚が想像できない。自分に子どもができるということはわたしの想像力の陰のほうにあって、うまく焦点をあてられない。自分自身に「女としての役割」が選択肢としてないと思っているからだろう。

「あの頃は、わたしも尖ってたよねー。毎日毎日契約取るために躊躇いなく頭下げてさ、ガッツがあった」

 やめてほしい。もうこれ以上、わたしが大好きなあのときの明子さんを笑って過去のものにしないでほしい。

 話せば話すほど悔しくてたまらない。なんできょうわたしのこと、誘ったんですか。そのことばが喉元まで出てきたが、決して問いになって体外に出ていくことはなかった。

 食事を終えて、一緒に改札を通り、きょうはありがとうなんてお互いに感謝のことばを吐きながらホームに向かった。健全に十六時解散。明子さんは、こんな腑抜けみたいなわたしと話せて楽しかっただろうか。

駅構内にある書店の前で明子さんがぴたりと足を止めた。

「たしか松倉の同級生だよね」

 顔を上げると店頭に「深山景雪特集!」と大々的に書かれた一メートルほどのポップが掲示されていた。その下に彼が書いた小説が並んでいる。併せて彼が過去に答えた新聞のインタビューもラミネートされ、飾られていた。そのまま、あたり一辺が新聞と同じ色になった。脳が汗をかき、呼吸が浅くなる。なんてタイミングが悪い。

 明子さんは文庫を手に取りページを捲った。

「すごいよね。彼。最近なんか賞獲ったんでしょ? 映画化もしてるよね」

「そうなんですか?」というが正解なのか「そうなんですよ」が正解なのかわからない。景雪のことは、極力探らないようにしていた。だけど嫌でも入ってくる情報で賞を獲ったことも映画化したことも知っていた。

「すごいですよね」

 なんとかギリギリ笑えた。

 体の中で何かが暴れはじめ、キリキリと内側を引っ掻く。

 それから明子さんは何事もなかったように本を置いて、ホームに向かって歩き出した。

「きょうはどうもありがとう。会えて嬉しかった。またよかったらご飯行こうね」

「こちらこそありがとうございます。お会いできてうれしかったです。すごく楽しかったです」

 自分に言い聞かせるように言った。わたしのギリギリの仕事用の笑顔をどうか見破らないでほしい。

 明子さんは手を振ってホームに降りていった。彼女の左手の薬が光を放ってわたしの目を焼いた。大好きな彼女が影となり、消えて行った気がした。

 駅構内のトイレに向かった。ひとは全然おらず、いちばん奥の個室に入った。便座に腰を下ろし、深呼吸をする。アンモニア臭など一切なく、怖いくらいに消毒液のにおいがする。しかしどんなに吸い込んでもこの体が浄化されることはない。

鼓動はずっと「ゴッゴッゴ」という鈍い音を繰り返していた。震える手でスマートフォンを取り出し、レズビアン風俗のサイトに行き、いまから遊べる女の子を予約した。あかね二十三歳。この子もまた、初めて遊ぶ子だ。

帰り道と同じ渋谷・新宿方面の山手線に乗り、品川から乗車時間二分の大崎で扉が開くのを見て見ぬふりをした。それから新宿で降りて、指定したホテル歩いて向かい、あかねを待った。

 あかねがどんな顔をしていたのか覚えていない。脳が溶けるほど甘い声だった。前にデパートで嗅いだ香水の匂いがした。二の腕も、胸もお腹も、太腿もわたしより肉感があって、心地よくて、天国のようだった。このまま死んでしまうのかもしれないと思った。

 お金を払って女の子と性行為をする。幸せだ、すごく。昇天するときに起こる小爆発で、虚しさを一緒に消し飛ばした。

 わたしの人生がこうなってしまったのもぜんぶ、景雪のせいだ。

 景雪はこころの痣。そして人生の壁。わたしは景雪に殺された自分のために惨めになりたくなかった。わたしが男を好きにならないのも、誰かを愛せないのもぜんぶ景雪が悪い。そして同時に景雪が何も悪くないこともわかっている。だけど、恨んでいないとやっていられない。大嫌いで、憎たらしくて、だけど誰よりも神格化している。景雪と出会わなければ、景雪に出会わなければこんな風にならなくて済んだのに。

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