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【短編小説】いとしいけもの

〇●〇●
虐待サバイバーが主人公です。
ひとによっては読んでいてつらくなることばがある可能性がありますので
ご注意ください。
〇●〇●



 目の前に大きな木製の扉がある。またこの夢だ。

 子どもの姿の俺がそれを開けると、また違う扉が現れる。開けても開けても別の扉が目の前に現れてきて、外の世界には行くことができない。

 鉄製の冷たい扉が出てきたとき、ドアノブには手をかけず、その前に膝を抱えて座る。向こう側には鬼がいることをなぜか知っている。

もうどこにも行けないからただ座って夢の終わりを待つしかない。

 トイレの中でスマホを取り出し、位置情報共有アプリを見た。彼が自宅にいることに激しく安堵する。

 居酒屋の店の中はあまりにもうるさくて、トイレに入ってようやく流行りの歌が流れていることに気がついた。

 席に戻ると猥談が始まっていた。さて、きょうはどんな嘘をつこう。

「亜蓮は最近いつエッチした?」

 晃一がヘラヘラ笑いながら訊いてくる。

「水曜」

「え、月に何回してんの?」

「んー、あんま多くない。十くらい」

「え、何人と?」

 晃一、亮介、吉樹が顔を寄せ合い訊いてくる。

「秘密」

 そう言うと彼らの爆笑が店内の喧騒を増幅させる。

「やっぱ亜蓮は違うよなー。俺なんてもう何ヶ月もしてないわ。溜まりに溜まりまくってるよ」

「ほんと亜蓮の顔に生まれたかったわー」「真のモテを経験したかったな」と彼らは口々に言う。

「まぁね」と言って誤魔化す。

「可愛い彼女は怒らない?」

「ま、そこはうまいことやってるから」

「男だなー」「そういうのわかって付き合ってるもんな」と彼らの興奮はとどまることを知らなかった。

 みんなごめん、俺ほんとは経験人数一人なんだ。その十回も全部同じ相手。罪悪感なんてないまま腹の中ではせせら笑っている。

しかし、可愛い彼女が居るなんて俺は今まで一度も言っていないのだ。

 学生時代からついている嘘がなぜずっとバレないのか不思議だ。写真を見せなくても話だけで信じてもらえてきた。ちなみに具体的なエピソードはネットに落ちているものを参考にしている。

 これからしばらく続いた結構エグめの下ネタの話を聞き流すどこから一緒になってはしゃぐ。でも実際、俺はこの手の話は全然好きじゃない。

「そういや」と急に何かを思い出したように亮介が言った。

「この前猪瀬くんテレビ出てたよ」

 一切動揺を顔に出さず彼を見た。

「何出てたの?」

 知らぬふりをして訊くと「あの、昼の本紹介する番組」と言った。知ってる。インタビュアーに対し、余裕そうに笑っているのがおもしろくて録画を何度も観た。最終的に恥ずかしがった彼にいい加減にしろと言われ、テレビを消された。

「あ、俺、雑誌に載ってるの見たわ」と晃一が言った。

 この前新刊が出たからメディアへの露出が続いている。

「てか、年収いくらなんだろ」

「そーゆーの気になる?」

 亮介に対し吉樹が笑った。

「だって同級生が超売れっ子作家なんだぜ? 夢あるじゃん?」と亮介が返した。

「猪瀬くんてどんな子と付き合ってるんだろ? 結婚してんのかな」

 誰も手つけずでカラカラになった鳥皮を頬張りながら晃一が言った。

 彼らが言うのを興味があるふりをして訊く。この話早く終わらないかなと思いながら。

「猪瀬くんかっこよくなったよね。高校のとき、なんか暗いし芋だったじゃん」

「お金持ってるからいろいろやってるんじゃん? それこそいっぱい女抱いてんじゃない? だから垢抜けたんでしょ」

「結婚したら死ぬまで贅沢させてもらえるんじゃね。いいよな」

 亮介は笑ったが、結婚ということばに少しだけ脳が揺れた。

 終電ギリギリまで店に居て、ダッシュで山手線に乗り込む。

 俺は椅子に座らずドアの近くに立った。こんな真夜中でも東京の電車はやや席が埋まっている。

二人組の女の子が俺を見て「あのひとめっちゃかっこいい」という声が聞こえる。こういうのにはとっくに慣れている。

 昼間はとめどなく人の波で荒れている品川も、深夜をまわればぽつりぽつりとひとが歩いているだけでとても静かで光がない。

 その様相はとても不気味で、早歩きで高輪にある家に急ぎ歩く。

 家に入ると真っ暗で、すぐに浴室に入った。

 電気をつけた途端、浮かび上がった自分の顔は呪い。俺もアンパンマンみたいに新しい顔が欲しい。

 この顔のおかげで得なことはあったし、チヤホヤもされてきた。

 しかし妬みを食らい、人生イージーモードと言われたり、女性関係のおかしな噂を流されたこともある。そういう事実無根なことを入れても全然傷つかなかった。友だちに嘘をついている自分も悪いし。

 それよりも、彼が俺の顔に一目惚れをしたという事実にいつまでも傷ついているのだった。この顔でなければ好きになってもらえなかったから。

 シャワーから出て髪を乾かし、寝室に行く。

 彼は浅い寝息を立ていた。隣に寝ころんでじっくりと見つめる。普段は俺の方が先に寝てしまうからまじまじと寝顔を見られるのは貴重だ。

 眉はしっかりと濃くて鼻筋が立派。一八〇を超える身長の筋肉質の大男で、決して子どもっぽい顔つきではないが寝ているときは可愛い。

「夢がある、かぁ」

 みんなに、きょうも言えなかった。

 男と付き合ってることに驚かれるのか、猪瀬有為と付き合ってるのに驚かれるの、どっちかな。両方だろうな。

 年収も知っている。付き合ってる子は俺だ。彼はゲイで女性が苦手。高校時代まったくモテなかった彼が、男のいる場所に行くとモテる。

 キスして、それから身体を密着して眠る。

 またきのうと同じ夢を見た。ひとりぼっちで膝を抱えたまま、朝を迎える。

 目を醒ますと彼は隣に居なくてドアを開けるとキッチンに立っていた。

「おはよう。きのう何時に帰ってきたの?」

「おはよ。一時半くらいかな」

「よくそんなに話すことがあるね」

 嫌味っぽい言い方じゃないからほんとうに疑問なのだろう。有為は嫉妬しないし、俺がひとと会ってもまったく興味を持たない。それについては深く分析しないようにしていた。

 彼は、ティファールで沸いたお湯をコーヒードリッパーに注いだ。

 近づいて後ろから抱きついた。

 彼が俺の方を向くからキスをすると、彼の方から舌を入れてきた。

彼はティファールを台に置き、俺の腰を抱きながら口内を舌で犯される。上手に息継ぎができない。頭が沸騰しそうになる。

 彼の頬を抑え顔を離す。

「ちょっと、朝、朝、朝」

 そんなふうに強引にされてしまうと身体が火照る。嬉しくてたまらない。

 彼はもう一度軽くキスをして、俺の分のコーヒーを淹れてくれた。

 それからタイ料理の宅配を注文し、彼はカオマンガイ、俺はガパオライスとトムヤムクンを食べた。

「ことしのお誕生日、何か欲しいものある?」

 三ヶ月先の話をするということはまだ一緒に居てもらえるということだ。

 きのう、亮介が言っていた死ぬまで贅沢させてもらえるということばが頭を掠める。

「何も要らない」

 お金目当てだと思われたくないから俺から何か買ってとお願いしたことはない。けれど彼は金遣いが荒いからしょっちゅうプレゼントをくれる。

「きみはほんと無欲だね」

 穏やかに笑う口元を見ていた。

「結婚してほしい」

 ゆっくりと笑顔が崩れた。望むのはこのまま一緒に居ることだけだ。いつも俺がこれを言うと少し困った顔をする。

「俺、欲深いでしょ」

 俺が笑っても彼は笑い返してくれない。彼がことばを選んでいるときの沈黙は嫌いじゃない。

「相手をぼくに選ぶ時点でやっぱりきみは無欲だよ」

 俺を見ず、ジャスミンライスをスプーンでほぐしながら言った。

「有為は? 何欲しい?」

 彼の誕生日は俺の一週間後だ。俺があげられるものなどたかが知れているがもらっているばかりなのは気が済まない。

「欲しいものはもうないよ」

 彼は軽く言ったが、最近の彼は俺との別れを考えているだけでなく、人生そのものを畳もうとしている気がして恐ろしい。

 毎月”アレ”が出てきそうになるとき、彼は外出を控える。きょうは日曜日だけれど一緒に家で過ごすことにした。

 昼食を食べた後に一緒にオンデマンド配信の映画を観た。つまらなくて飽きてしまうと彼も同じだったようでそのままゆっくりとソファに押し倒され、身体を貪られた。

”アレ”が出そうなときは、あまり身体を求めてこないのに、きのう俺が居なかったこと少しは寂しいと思ってくれたのだろうか。

 俺のことが好きなのか、セックスが好きなのがどちらなのだろう。俺の外見が好みで、一緒に居ればすぐヤれると思っているから傍にいてくれるならそれでもいいかと最近は思い始めた。

 彼が、そんな考えをするひとではないことを、よくわかっているはずなのに。

 夕飯は、有為がつくってくれたパスタを食べた。食事はいつも彼が用意してくれる。

 有為がお風呂に入っている間、彼のスマホをチェックする。お互いに見ていいことにしているが、彼は俺のスマホを見ない。

 彼のSafariの閲覧履歴には会員だけが見られるゲイビデオのサイトにアクセスした履歴があり、一気に身体が冷たくなった。さっきまで楽しくて幸せな気持ちで満たされていたのにどうしてこんな気持ちになってしまうのだろう。

 パスワードがわからなかったのでログインはできなかった。端末に記録させていなかったようだ。ほかの履歴も確認すると男性の裸がまとめられたサイトも見たようだった。

 前に注意して以降見てなかったのに……と思ったが、実は見てはいたが履歴を消していて、きのうはたまたま履歴を消し忘れていただけなのかもしれない。

 氷点下から一気に沸騰し、もう怒りが収まらなかった。

 彼が出てきてすぐに「ねぇ、これ何?」と彼が会員登録しているサイトの画面を突き出した。

 彼は一切慌てる様子はなかった。

「俺前に言ったよね。観ないでって。どうしてわかってくれないの? 説明して」

「ごめん」

「なんで俺がいるのにこういうのが要るの? 信じられない。最悪」

 どうして、このひと以外の誰かの発言や行動は気にならないのに、世界で唯一好きなひとの些細な行動が、どうしてこんなにも腹立たしく感じられるのだろう。

冷静になったときは「別に見るくらいならいいよな」と思うのに実際にやられると、何かにとりつかれたかのように怒りが収まらなくなる。

 彼が冷静に俺を眺めていることも滅茶苦茶に腹が立った。

「きょう、俺のこと触ったのも、こういうの観てやらしい気持ちになったからだろ」

「違うよ。約束を破ったことは謝る。ほんとうにごめん」

「気持ち悪い。お金払ってこういうの買って観るなんて虫唾が走る。頭おかしいんじゃないの? 異常だよ。俺には理解できない」

 ひとしきり暴言を吐いた後、自分が大嫌いな母親と同じように彼を責めあげていたことに気がついた。

 いつも彼は反論しないし、止めもしない。ただただ俺の暴言をいつも最後まで聞く。

「ごめん言い過ぎた……」

 後悔はいつも先立たない。自業自得なのに涙が止まらなくなった。肺が上下に揺れる。

「ううん、ぼくのほうこそ不快な思いをさせてごめん」

「ごめん、ごめんなさい……」

 前よりマシになった。前はもっと酷いことを言った。マシになっただけで治ってはいない。

 その場に崩れ落ち、必死で謝る。母親の幻影が見える。

――ほんとうにダメな子ね。どうしてわたしとあのひとからあなたみたいな子が生まれてきたのかしら。あなたの行動全部、わたしには理解できないわ。

「大丈夫だよ、亜蓮」

 こんなことを言う俺は嫌われてしまって当然だ。

「俺も……有為みたいに……優しくしたいのに」

「ううん、じゅうぶんだよ。嫌な思いをさせてほんとうにごめんね」

 彼は俺を抱き寄せた。

「大好きだよ、亜蓮」

 違う自分ならもっと好きになってくれたかな。それとも、そもそも好きにならなかったかな。こんな自分じゃなかったら別れたいだなんて思われなくて済んだのかな。

 どうしてほかのひとの前だったら嘘をついて笑うことができるのに、このひとの前だと自分が制御ができないのだろう。

 俺のこころは、ずっとうまく働いてない。

 彼もおそらく気づいているはずだけれど、俺は顔だけでなく中身も母親に似ている。

 俺と母の違うところは、絶対に俺に謝らなかったこと。彼女はハッと我に返ることなんてなかった。つまり、ずっと我。

俺以外のひとに見せる顔も、俺に見せる顔もそれらは対極に位置しているがすべて地続きの彼女の表面の姿だということだ。

「あなたが全部悪い」と何遍も何遍も言われた。

 母の人生を壊したのは、俺が出来損ないだかららしい。その話を有為にすると「違うよ」と言った。

「きみのママの人生が思い通りにならなかったのはきみのせいじゃない」

 このことばも、きっとほかの誰かが言ってもあまり響かなかった。というより、ほかの誰かは知らない。

俺が母親に虐げられて生きていたこと。ふたつ上の兄は守ってくれないだけでなく、便乗して俺に暴力を振るっていたこと。そして父親は滅多に家に帰ってこないこと。

 高校生のとき、大学生の兄が友だちを家に呼び、押さえつけられ服を脱がされた。火のついた煙草を太腿につけられ、火傷をした。いまでもその痕が残っている。

 そのときに兄にも「お前が出来損ないじゃなかったら父さんは別の家族を持たなくてよかった」と言われた。

 俺のせいじゃないと思いつつもほんとうは「そうなのかもしれない」と思っている。

 家族に起きたすべての不幸は俺のせいなんじゃないかと。

 学校でいちばんで居られるようにずっと勉強を頑張った。それでも「こんな学校でいちばんになっても仕方ないのよ」と褒めてはもらえなかった。

 すべての始まりは、俺が中学受験に失敗したことだった。

 母は言った。「生まれてくるのがあなただとわかっていたら産まなかった」と。

俺だって好きで生まれてきたわけじゃない。けれど、彼と出会い、救われ、俺が生きていることが嬉しいと彼が言ってくれた。

「きみのママが何度きみを否定しようが、ぼくが何度でもきみを肯定する」と言ってくれた。あの家から連れ出してくれた。彼に愛されていると実感するたび、生まれてきてよかったと思う。

 しかし、そんな彼がいまでは「亜蓮の幸せのため」という理解不能な大義名分を振りかざし、別れようとしている。

 彼と過ごすべき貴重な時間にほかのひとと過ごすのは、俺もこの恋の終わりをずっと予感しているからだ。

彼が誰とも会うなと言えばやめた。俺と同じように束縛をしてくれたら従った。けれど、彼を縛らなかったのはいつか手放すと決めているから。

その気持ちに気づいたのはいつからだろう。

 一緒に家を出ようと言ってくれたときは違ったはず。一緒に暮らし始めたのは俺が大学生のときで、その頃にはそんなことを言い出していた気がする。

年に一度は別れ話をされたが、それが本心じゃないとわかるから適当にあしらった。愛情に敏感だから、嘘かどうかはすぐわかる。

 ほかに好きなひとがいるの? と訊いたら「ぼくの人生できみ以外の誰かを好きになることは絶対にない」と言われた。だったら一緒に居ればいい。

彼がいつも天秤にかけているのはひとりで死ぬことと、俺と一緒に生きることだ。

思いをたくさんぶつけた。隠しごとなんてしてない。どんなにことばを尽くしても気持ちの通じ合わない恋愛があるんだと身を持って体感している。

 どうしたらその考えを変えられるのだろう。彼は甘える、ということができないひとだった。

 明け方に目が醒めたらベッドの中で裸で抱き合っていて、あの後もう一回したんだっけなって思ったらまた離れがたくなって密着した。筋肉質の彼の身体は温かい。

 俺たちは身体を繋げるということはしなかったけれど、それは俺が断ったからで、本心で嫌だったわけじゃない。

少しだけもったいぶらせておきたかった。彼が望めば応じるつもりだったけれど、彼が提案してきたのは一度きりで、それ以上頼み込んでこなかった。

 もう一回言ってきたら身体なんて喜んで差し出す。それで彼の気持ちが繋ぎ止められるのならば。

 職場に行き、門を開ける。朝はものすごく苦手だから早番はできるだけ避けたいがシフト制なので仕方がない。

 園内を掃除をして、子どもたちを受け入れてからは慌ただしく時間が一瞬で過ぎる。

 子どもたちがお昼寝をしている間、一緒に眠りたい気持ちになりながら高速で連絡帳を書く。

 前に保護者から「端正なお顔立ちなのに連絡帳の字は整ってないですね」と言われたのでできるだけ読みやすいように気をつけるが、やはり字は上達しない。母にも字が汚いと激しく罵られ、背中を殴られたことがある。

 早い子だと16時過ぎには迎えがくる。

 保護者から「亜蓮先生、ちょっといいですか」と声をかけられた。そのひとの子どもである男児は別の先生に抱きついていた。

「あの、S区の先生の事件てご存知ですか?」

「あぁ、はい。知ってます」

 先日、S区の男性保育士が4歳の男の子に性的暴行を加え逮捕された。俺は「いたずら」という表現が大嫌いだ。そんなことばで済まされることではない。

「亜蓮先生は大丈夫ですか? 男の子に興味持ったりしていませんか?」

 一瞬何を言われているか理解できなかった。疑われているのだ。

前は女児の母親から「いくら容姿がいい先生でも男性にうちの子はみてもらいたくないです」と言われたことがある。

 こういう穿った目をされることは仕方ないのかもしれないが、もし俺が男と付き合っていると知られたらどう思われるのだろう。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。一切ないですし、大切なお子様を傷つけることはしないよう細心の注意を払って接していますのでご安心ください」

 できるだけ笑って言う。

「そうですよね。失礼しました。亜蓮先生はおモテになりますよね」と彼女は控えめに笑った。

「亜蓮先生にそういうシュミがあるなんて思ってないんですが念のため、ね」

 彼女は礼をし、子どもを連れて帰った。

 こころが寒々しくなる。

 そういうのは「シュミ」のひとことで片付けられているのだろうか。この話をしたら彼は何を語るだろうか。俺たちもそういう「シュミ」のひとと思われるのだろうか。

 早番のいいところは早く家に帰れることだ。きょうの夕飯はなんだろうと思い、ワクワクしながらドアを開けると呻き声が聞こえた。

 彼が、リビングで叫び声をあげ、壁や床に身体を打ち付けていた。

 もう”アレ”が出てきた。先月は二十二日で、今月は十八日。ちょっと早かったな。

 毎月一度、十分ほど。彼は別人のように暴れ狂う。

 自分の中に獣が居るのだと彼は言った。

 何軒も病院をまわった。カウンセリングも行った。あらゆる手を尽くしたが、原因も名称も不明らしい。

 中学一年生の俺はこれを“レミエル”と名付けた。慈悲を意味する天使の名前だ。

 名前は何でもよかった。中学一年生の夏、出会ったときの彼は、穏やかに死を待つ植物のようだった。あまりにも寂しい目をしていたからただ、笑ってほしかった。元気になってほしかった。

 止め方を知らないからいつも静観するしかない。暴れる専用の部屋を用意しているが、きょうは間に合わなかったのだろう。

 彼がアップライトピアノにぶつかり、倒れ込んだ。それからまた、回転し、ドアに身体をぶつける。

 彼には悪いが可哀想とは思っていない。

 すべてのひとが業を背負って生きている。

 彼にとってそれがこれなのだ。

 代われるなら代わりたいし、何もできないとしても一緒に居る。彼が俺とずっとに居る気がないのは間違いなくこの”レミエル”が原因というのは言われなくてもわかる。

 俺は、ほんとうの鬼を知っている。だから、お前の中の獣は怖くない。

 自身の境遇に思い悩んでいる彼にこの話をしたら無神経だと思うかな。俺のこと嫌いになるかな。

 どんなに想っていてもそのひとじゃないから全部をわかり切ることができない。

 それでも思う。愛してる。そう思えるのは、他人だから。

お前は全然、わかってくれないけどね。

 正確に測ったことはないけれど、十分経つとピタッと静かになり、彼は倒れ込んで眠りにつく。

 床に寝かしておくわけにいかないので重たい身体をとりあえずソファに運ぶ。

 彼が目を醒ますまで、頭や顔を撫で続けた。

 目を開けて事態を把握した彼は慌てた顔で「ごめんね。怖い思いさせちゃったよね」と言った。

「してないよ。有為のほうが辛いんだから謝るなよ」

 こうやって謝られるのは何回めだろう。謝らないで欲しい。彼が謝るのはわかる。俺が、母親から暴行を受けていたからだ。たしかに思い出しはする。けれど母親は鬼だった。彼とは違う。だから申し訳ないと思わないで欲しい。

 精神的に成熟して、このひとのことを守れるくらい強い人間に俺もなりかった。

「今月もう出てよかったじゃん。遊びに行けるね」

 俺が笑うことで彼の哀しみを吸い取れればいい。

「ありがとう」

 いつもたくさん傷つけているからお礼を言われる筋合いはないのだ。

「夕飯つくってないから、どこか食べに行こうか」

 弱々しく笑ってくれた。いつももらうばかりだから、少しは分けたい。

 歩いて十分弱のところにある鉄板焼きの店で夕飯を食べ、公園のベンチに座った。夏が終わった。少し涼しい風が吹く。

 背もたれに身体を預け、彼の肩に肩をくっつける。

 東京でも光の弱い住宅街は、星が綺麗に見える。

「幸せ」と俺が呟くと彼は少し納得いかないような顔をした後、微笑みを落とした。

「ねぇ、俺のことどれくらい好き?」

 俺がこう訊くと「いちばん大きな惑星より大きい」と即答だった。

「じゃあ、はくちょう座V1489星だ」

「そうなの?」

「そうだよ」

 どのへんだろうなと夜空を覗き込む。しっかり者に見えて少し抜けているところもあってほんとうに可愛いひとだ。

 有為は、俺の気持ちを確かめない。もし訊かれたなら言った。俺のほうがお前のことをずっと愛していると。

 生まれてから何不自由なく育ち、女の子にモテて、可愛い彼女が居るというみんながつくりあげた幻想の俺よりも、家族に恵まれず、いまだにトラウマに苦しみ、自分の気持ちを上手に扱えなくても、大好きな彼氏と一緒にいる本当の俺のほうがずっと幸せ。

 別の人生がよかっただなんて思わない。

 幸も不幸も全部のピースが揃ったからいまこうして好きなひとと居られる。

 だったら、この一秒一秒を搔き集めて愛しい時間を抱きしめたい。

 実はあの夢には良いパターンもある。

 鬼のいる扉の前で膝を抱えて座っていると、俺が開けてきた扉からひとが入ってくる。

 あの夏の日に出会った中学一年の有為だ。

 それから彼は俺の手を引き連れ出してくれる。俺が開けてきた扉をふたりで開ける。

 どこにも行けないけれどずっと一緒だ。

 この夢を見たときばかりは、このまま醒めないことを願う。

いつか離れてしまう現実がいつか来るならば、ずっと夢の中で一緒に居たい。

 この恋に延命措置ができるなら俺はなんだってする。

 だから、また朝が来てもずっと一緒に居よう。そして日々を営んでいこう。

 これ以上の幸せは望まない。ただ一緒に年を取っていくことが俺の望み。

 一緒にいるのが不幸だと言うのなら、ずっと一緒に不幸で居よう。


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『レミエル』本編
https://kakuyomu.jp/works/16817330651591140222

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