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デザイン教育のデザイン——1: デザインの定義をする

(続き)この美術専門学校に着任した2009年ごろ。当時のデザイン教育の状況を振り返ってみます。いわゆる大手美術大学出身のデザイナーは、それまでと変わらず活躍していました。一方、慶応義塾大学 湘南藤沢キャンパスや早稲田大学 文化構想学部など。いわゆる総合大学においてもデザイン領域と呼べるプログラムが実施され、そうした卒業生の活躍もかなり目立つようになりました。

またウェブデザイン——特にAdobe Flash——を経由して、いわゆるインフォーメーションアーキテクトなる範囲の方も活躍していた。ほかにはタイポグラフィ関連の出版物を扱う株式会社 朗文堂が新宿私塾を開講するなど。それまでのアートスクール系の価値観に留まらないデザインへの入り口が日増しに増加していました。

筆者としてみれば、それは頼もしい傾向でした。こうした場における教育プログラムはもちろん、それぞれにおけるデザインの定義をつぶさに観察してゆくこととしました。

デザインの定義——インフラストラクチャとしてのDesign

デザインということばそれ自体は頻繁に見聞きするものです。しかしその語の意味はかなり曖昧なところがあり、また世間の用法をみてゆけばプロダクトデザインやファッションデザインという、いわばオールドスクーラーな用法・職業区分にはじまり、UXデザイン、サーヴィスデザインなど、この十年ほどでカテゴリが確立したもの。

はたまた「タレントがデザインしたグッズ」や「デザイナーズマンション」から「キャリアデザイン」や「組織のデザイン」まで。現在では、かなり広範囲において散見されます。

ややこしいことにデザインとは、場所や状況、習熟度や文脈しだいで意味が変化する言葉です。ひとまずオックスフォードイングリッシュディクショナリーをひいてみます。Designという語にかなりページが割かれていることがわかります。肝心なのは、名詞と動詞が存在する点です。なにかつくられた結果、つまりものや成果を指す名詞を指す語としてデザインをつかうこともできれば、そこにいたる経緯、行動をあらわす語として、デザインをもちいることもできる。

つまり「このデザイン、いいよね」という用法も、「改善のためデザインをする」も正解。世間の傾向をみれば、デザイン、工芸、そしてアートを区分したがる傾向にありますが、職業区分はさておき、いずれも成果たるものごとと、そこにいたるプロセスを指す行為であることは同意といえます(筆者としては、ここに必要以上に線引きをおこなうのは、むしろそれぞれが元来もつ可能性を失わせることのようにもみえるのです)

さて。筆者が講義や社会人むけ講座において、毎度初回に人類最初のデザインとして紹介するのはハンドアクスです。人類に他のいきものとことなる点があるとすれば、それは環境を拡張・制御するため、外界にたいし積極的に手を入れてゆく行為にあります。猿人と人類をわける条件があるとすれば、それがデザインなのかもしれない。

ハンドアクスそれ自体は人類にデザインされたものです。それにより狩猟や工作がはかどるようになったことでしょう。そうなると、今度はハンドアクスありきの生活がうまれます。それはそのつぎの段階における、当然のこと、インフラストラクチャとなってゆく。これはハンドアクスにかぎらず、住居からスマートフォンにいたるまで。わたしたちはデザインされたものに、みずからもまたデザインされてゆく。道具により、外界や環境を制御し、そこに手を入れながら、あらたな典型やインフラストラクチャをうみだす過程と結果。それ自体は人類にとって普遍的ないとなみです。

デザインをインフラストラクチャとして捉えること。人を人たらしめる根源的なるいとなみ、OSであること。デザイン教育プログラムを設計するにあたり、その基準となるデザインの定義。いわゆる現代的な職業区分を追うのではなく、原義から定義することを試みました。

なお、こうして明確に言語化できるようになったのは、教育プログラムに手を入れるようになってから、随分後のことです。非常勤講師である大林寛さん(OVERKAST)と協働した2017年の講座『デザインのよみかた』(schoo)の経験がとても大きいです。


継ぎ足しのカリキュラム——職着領域で細分化される傾向を再考する

では、なぜこうして大きな定義をおこなったのか。ひとつは、マインドセットの形成を目指していたこと。この美術専門学校において当時開講されていた授業・演習は、スキルセット、オペレーションセットに特化しているものが多くみられました。それらの「アプリケーション」を稼働するための「OS」を定義する必要があったのです。

もうひとつは、より実務的な問題として。この美術専門学校では非常勤講師による授業・演習が大半を占めていました。つまり年々、トレンドを取り入れることができる。Adobe Flashの次はiOSなど。そういて切り替えが素早くできるのは、まさに専門学校の利点であるとおもいます。しかし、そうして時代の職業やコンピュータアプリケーションをふまえ、継ぎ足し継ぎ足しで更新されるプログラムは、輪郭がぼやけ、コアが不在となっていたのが実情でした。

タイポグラフィという財産

さて、このデザイン学科は「コミュニケーションデザイン」という冠がついていました。前進となったのは視覚伝達デザイン。筆者が着任する少し前2007年に改称されています。かつては広告領域を中心にしていながら、デジタルメディア化する時代にいかにして最適化するか。学校としてはそうした意図がありました。しかし教育現場レベルでは、正直、混乱をしていたのも事実です。

ここではデザインの定義をおこなうと同時に、コミュニケーションデザインの定義もまた求められていることを意味しました。

この美術専門学校では、長らくタイポグラフィ系の授業が開講されていました。『タイポグラフィの領域』『評伝 活字とエリック・ギル』(いずれも朗文堂)などの著作がある河野三男さんを中心として、2009年当時はグラフィックデザイナーの杉下城司さん、白井敬尚さんが関連授業をご担当いただいていました。

河野三男さんが、いわゆる「グラフィックデザイン的なタイポグラフィ」ではなく、本義的なる活字組版としてのタイポグラフィを指導されていたことは、このデザイン教育プログラムをデザインするにあたり、とても大きな要となりました。

タイポグラフィの先鋭。もっと言えば当時、その特異性から教育内容・成果を評価をされていた新宿私塾の講師陣でもあります。タイポグラフィにまつわる概論、基礎教養を河野さん、そこから組版の基礎を杉下さん、構成・展開を白井さん……というように段階的に習得してゆくプログラム。筆者として、それはかなり贅沢な体系にみえました。

しかし当時の学校としては、あまり大きな扱いとしていなかったのも事実です。それまで軸となった広告領域にフィットしない学生が受講するサブカテゴリというような認識。おそらくなにか小難しいことをしていると思われていたようです。事実、当時この美術専門学校がアートスクール的に学生各々や講師陣にある(近代的)自我を無責任に礼賛する傾向にありました。そこからすれば、だいぶ距離のある内容であったのは事実でしょう。

しかしタイポグラフィは、なにも書籍制作における術とは限りません。人間にとって最も根源的なコミュニケーションである言葉。それを可視化した文字。さらにはそれを規格化したタイポグラフィ。

オンスクリーンメディアにおいても、その情報の基礎となるのは活字による表示——つまりタイポグラフィです。それはコミュニケーションのデザインにおいて、媒体の新旧あるいはかたちを問わず、根源的な基礎となるもの。ましてや前身が視覚伝達デザインであれば、なおさらです。

さらにいえば、アートスクールにおけるデッサン力的なるもの——視覚を通じて、造形精度をコントロールしてゆく能力——は、タイポグラフィもまた多く備えています。そしてデッサンという行為以上に、タイポグラフィはメソッド化された体系が存在する。それはまさにコミニュケーションをデザインするためのインフラストラクチャなのです。

2009年時点。この美術専門学校においてタイポグラフィは、高学年に向けた小さな選択科目でした。これを1年次からの基礎過程とすること。その置換が、ここにおけるデザイン教育プログラム、最初の大きな手となりました。

次回は筆者が関わった最終系である、2020年段階のデザイン教育プログラムを開設しながら、各論を紹介してゆこうとおもいます。


12 February 2024
中村将大

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