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デザイン教育のデザイン——番外編: 当時とすこし変化したこと

note記事。2019年にお話ししたものが、この数日、けっこう読まれているようです。ありがとうございます。ちょうど文化におけるモダニズムについて考えはじめたころのこと。この段階では西洋と東洋を対比的にみていて、解像度あまいところがあります。いまとなっては差異もあれば、共通項もあるという解釈。

それは視覚の優位性についてのはなしかもしれない。人類史における革新的な時代をみれば、不思議なほど視覚優位な文明にもみえてきます。

たとえば谷崎潤一郎『陰翳礼讃』にみられる近代の課題。それは他の身体感覚にたいし視覚が前景化しすぎることへの危惧と読むこともできます。ただこれは日本固有の文化にかぎらず。すこし抽象化すれば、潤質な場においてひかりが拡散した情景とみることもできる。鮮明ではない視覚情報はなにをうむか。

それはウィリアム・ターナの絵画。ゲーテの色彩論。ECMレコードのアートワーク、あるいはブライアン・イーノの音像とも、そう距離があることではないとおもう。マッキントッシュやバブワーなど。イギリスのアウターが日本でも定番化するのは、ともに湿度ある風土だからかもしれません。

そういえば柳宗悦は民藝運動にいたる以前、ウィリアム・ブレイクの研究をしている。もしかすると視覚が鮮明であれば、ブレイクにみられる幻視はおこりえないのではないか。それは『陰翳礼讃』で谷崎の指摘する、悠久に対する一種の恐れとも共通するかもしれない。

古代ギリシャ、ルネサンス、そして近代。こうしてみればいずれも視覚優位である時代にみえてきます。哲学における分別。わける・わかるはみえていることが前提か。視覚は自と他を明確に区別することができる。ギリシア神話の神々は理想的な人間の身体、それも裸体として具現化される。これはひとつのルッキズムのあけぼのか。

メデゥーサの呪いは視覚をつうじておこなわれ、預言者は盲目である。こうしたところにも、ギリシア時代における視覚への畏敬がみえてくる。

ルネサンスもまた、みえる時代だったか。アルベルティによる透視図法。ダヴィンチによる解剖は、みえているものはいかなる構造か。それを模索する取り組みといえる。この時代、鏡の加工技術が進化したというはなしも興味ぶかい。自分自身を客観視する装置であり、それはまさしくアルベルティの窓といえます。

近代においては写真術がそれに相当するでしょう。理想化されたみえかたが印刷やスクリーンなどのメディアをつうじ複製され流通する。年々、カメラやモニタの解像度、照明器具の光度はあがりつづける。それは目の機能を拡張していることに、ほかなりません。

他方、このしばらくのデザインの傾向としては経験・体験にもとづき、それを考察する機会がおおい。視覚優位の時代と、それ以外の感覚を同一化する時代は、いったりきたりしているのかもしれない。1930年代に書かれた『陰翳礼讃』が、いまも読まれているのはそうした要因もあるのかもしれません。

ここでふと気づいたこと。民藝において柳宗悦は「直観」や「集眼」ということばをつかう。あるいは東京近代美術館にたいし、批判的に「近代の眼・西洋の眼」という表現をしている。これらをみれば、想像以上に民藝は視覚のウェイトがおおきかったのかもしれません。そうした意味では、やはりモダニズムといえるのかも。


20 February 2024
中村将大

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