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日々を濾過するもの

あるころから、手帳にメモをすることが日課となりました。なにかをおもいついたときに、備忘録として書き込むことももちろんありますが、基本的には朝、出勤前のわずかな時間、新宿の喫茶店で手をうごかしています。

あたまのなかにあるものをアウトプットすることは、自分にはいいようで、漠としたものが、断片的な文章やドローイングになることで、それまでは考えもしなかったようなことに、じんわりと発展してゆくのです。あるいは、混沌としたものが、濾過されるとでもいいましょうか。デザインのこと、その教育のこと、あるいは音楽のことや日々のくらし、ときにはしょうもないことまで —— 形而上のことが、なにかしらのかたちに可視化される瞬間はいつも興奮してしまいます。

もとはといえば、それは仕事をしたくなかったからで、自宅と職場のオンとオフ、そうした二元の生活のなかに、グラデーション的な中間領域を設けて、ストレスを軽減させたいおもいからでした。とはいえ、そうした日々の習慣も十年ほどがすぎれば、そこで得た経験がみずからを形成しているようにもおもえてくるのです。ひょっとすると、仏教でいうところの座禅というのは、こうしたことを自覚的におこなう行為なのかもしれません。

そんな、手帳のできごとの、すこしさきにあるものとしてnoteをつかってみようとおもいます。

27 February 2018
中村将大


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