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デザイン教育のデザイン——はじめに

はじめに

2009年4月に新卒で入職し、その後、2021年3月までの11年間。東京都内にある美術専門学校の4年制デザイン学科教員を勤めました。ここでは授業を担当したり、非常勤講師の窓口をしたり、日々、学生の面倒をみたりすることが、その主な仕事でした。しかしこの11年をあらためて振り返り、筆者としてそこでもっとも印象に残っている仕事は、デザイン教育プログラムの設計と実施でした。

これは、いつの間にかはじまった仕事のひとつです。また筆者一人で実施したものではなく、専任・非常勤あわせた関係の教員たちと協働した成果です。しかし、そこで主体となっていたのは筆者でもあります。

デザインという領域や定義が日々更新されるなか、その教育をデザインすることに尽力したプロセスを、どこかで留めておいてよかろうと。そうした漠としたおもいで、この文章を書き始めています。

もちろん、これは当時の勤務先において最適化した事例であり、すべてのデザイン教育のありかたにおいて、これが絶対的な正解とはならないはずです。ただ、その検討成果を記録し公開することは、アーカイヴとしてあっていいことと考えます。

さて、これをどんな形式で発表するのがいいのか。実はこの数年、ずっと頭の中にあったものです。いろいろ考えるより、まずは思うところからnoteで不定期に書き進めてゆくことにします。ここでは散漫になることは間違いありませんが、ひとつのプロトタイピングとしてご容赦ください。

当初のデザイン教育プログラム

入職当初。この4年制デザイン学科における2009年時点の教育プログラムは、いわば平均的な美術大学や美術大学受験予備校のものをトレースした傾向にありました。いわゆるアートスクールなるもの。

1年次においてデッサンや色彩構成を基礎過程とし、専門学校らしくDTPオペレーションの演習がそれに混じるというもの。2年次以降、徐々に広告やウェブ、あるいは書籍制作の演習が増え、4年次に卒業制作を実施する内容となっていました。一見すると問題なさそうにみえるプログラムです。しかしこれを成立させるには、ある前提が必要となります。

いわゆる大手美術大学を受験するには、美術大学受験予備校を経由するという、なかば当然の事実が存在します。つまり入試科目に置かれる、デッサンや色彩構成(あるいは立体構成)を、一定の基準以上で作成できる能力が求められます。

年々の少子化傾向もあり2024年現在では一概には言えないことですが、少なくとも2000年代ごろまで、大手美術大学においては浪人前提で入学する傾向は確実に存在しました。

反対に言えば、国内のアートスクールにおいては、当然のように美術大学受験予備校を基礎過程と捉える流れがあります。高校生の頃から、場合によっては浪人生時代まで。数年間、美術大学受験予備校でトレーニングをおこない、その後、美術大学の演習プログラムを受けてゆくというもの。4年制大学ながら、実質はそこに5年、6年の期間が存在します。それはさしずめアメリカなどの教育機関におけるカレッジとユニバーシティの関係に似ているかもしれない。

しかし美術専門学校となると、その傾向は異なり、高校からそのまま入学するかたちがほとんどとなる。美術大学のような基準で入試を行うこともありません。

したがって、そうしたアートスクールの傾向からすればゼロスタートとなります。当時、これを懸念する教員が多かったことも事実です。しかし筆者としては、なにも美術大学のデザイン教育プログラムばかりが正解であるとは、到底、思えなかったのです。

ちなみに筆者自身、デザイン科の高校に在籍。その当時から美術大学受験予備校に籍を置き、その後、二年間の浪人生活を経て美術大学に入学したものです。ゆえに、そうした世界にしっかりと身を置いています。しかしそれゆえに、そうした教育プログラムの弱点を理解していたし、批評的にみることができたのかもしれません。

繰り返しになりますが、もちろんこれは美術大学受験予備校や美術大学のありかたを批判するわけではありません。そこに適性がある学生にとって、それは最適なものに違いありません。(したがって、ここでは各論には踏み込まず、いわゆる「主語がでかい」表現をあえてしています)

アートスクールの「デザイン」と「デッサン力」

さて、こうした美術大学受験予備校と美術大学。とりわけ美術大学受験予備校で「基礎」となるものは、いったいなにか。そこでは主に「デッサン力」という言葉が使われます。

デッサン。すなわち素描をおこなう能力。対象を的確に観察し、それを画面上で的確に再現するプロセス。これを最大の基礎とする傾向にあります。
色彩構成や立体構成においても、その傾向はつよく。そこでは、いわゆる構成(Composition)という行為そのものにあるオブジェクトと画面上に配置し、関係性を構築してゆく術といよりも、対象を観察した結果としてのアイデアとモチーフの描写力に重点がおかれるきらいをみます。つまり、これもまたデッサン力の延長と捉えられている。

さて、ここで重要となるのは、これは美術(Fine Art)における基礎であり、これをそのまま流用しているかたちとなることです。デザインと美術。そこには共通する点はあるものの、その職業領域としては、全く別物ということができます。

さらに言えば、こうした「デッサン力」の到達点は、いわば東京藝術大学や日展における作品群であり、ファインアートのなかでも、とりわけ技術・技巧志向のつよい領域を頂点としています。

しかしながら、アートスクールにおいては、こうしたファインアートを上位とし、デザインは下位領域とする傾向が、不思議なことに存在するのです。それはその後の美術大学、あるいは関連する広告業などでも少なからずみられます。つまり、能力の高いデザイナーはアーティストとして通用するという傾向。ある程度上の世代のデザイナーやアートディレクターとされた人々が、ある時期を境に純粋美術めいた「作品」を発表、あるいは展示するのは、こうした気風が影響していることは間違いないでしょう。

また近年は減少傾向ですが筆者が学生だった時代は、美術大学デザイン系学科の演習課題や卒業制作においても、いわゆるデザイン色が強いものより、ファインアート色があるもののほうが、不思議なほど歓迎され花形となっていました。

いわゆる広告業においては、若手の肩書きがデザイナーであれば、ベテランになるにつれアートディレクターと呼ばれるようになる。そうした些細なところにもみられるよう、こうした社会においては、不思議なほど「デザイン蔑視」と呼べる傾向もみられるのです。こうした認識が、前述の美術大学系デザインプログラムには色濃く内包されていることを、みることができます。

コンピュータオペレーションのこと

さてそれでは反対に、美術大学と美術専門学校のプログラムに、おおきな差異があるとすれば何でしょうか。それはいわゆるコンピュータアプリケーションの習得かもしれません。

大手美術大学において、それはあまり重視されていません。正規のプログラムにそうした演習科目が組み込まれていないことも珍しくありません。さらにはこれを教員が指導をすることは稀で、学生各々が独自に習得してゆく傾向があります。

一方、美術専門学校においてこうしたアプリケーションのオペレーションは、かなり重要な位置を占めています。ソフトウェア企業が設定した資格などを取得することも珍しくはありません。そこには、コンピュータアプリケーションの操作能力を成熟させ、美術大学卒業生と異なる範囲で就職先を押さえていかんとする目的もみえます。

さて美術大学受験予備校/美術大学におけるデッサン。そして美術専門学校におけるコンピュータオペレーション。もちろん、いずれも必要な能力です。しかし、これはいわばスキルセットやオペレーションセットの範囲に留まっています。デザインにおけるマインドセット、そしてそうした要素を束ねる編集能力は、基礎である必要はないのでしょうか。筆者としては、むしろデザインワークにおいて、これこそがOSなる基礎であると捉えます。

技巧を支えるOSを教育プログラムにていかに形成するか?

デザインワークにおけるマインドセットを定義し分類しながら、スキルセットやオペレーションセットをシームレスに接続し、循環させてゆける能力。こうしたものが身に付くデザイン教育プログラムを設計することはできないだろうか?——ある頃から勤務先の教育プログラム表を眺めながら、そんなことを考えるようになりました。まさにデザイン教育のデザインにトライしはじめたきっかけです。

そこではまず「デザインがそもそもなんなのか」を定義し、基準をつくる必要がありました。次回はデザインを定義するプロセスについて、すこし書き進めようとおもいます。

11 February 2024
中村将大

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