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“自分探し” お休み戦略

少し落ち着きましたが、デザイン系学生の就職活動はかなりギリギリまで続きます。4月以降の求人でキャリアをスタートする新既卒学生(変な言い方ですが)も意外といます。就職活動でおなじみの通過儀礼といって思いつくのが「自己分析」。これまで自覚しなかったり、気後れして取り組まなかった「自分とは何か」という、たいそうな命題にぶつかって多くの学生が苦しみます。

そこで一般によく言われるアドバイスとして、自分の原点を探るわけですが、その自分探しのスタートが「そもそも自分は何が好きだったのか」という話になることがあります。真っ向から否定するつもりはありませんが、学生時代に定義した「好きなこと」って、これまでの20年前後の人生経験の中で得られた情報に則ったものであり、思いのほか、自分が与えられた環境要因によって作られていることが多いのです。

子供の頃から「サーフィンが好きでプロサーファーになった」。これはもちろん素晴らしいことですが、いっさい海やサーフィンに触れていない家庭環境からそのような子供が育つことは稀なことですし、なんなら一部の家庭では、親の教育によって「好きなこと、天性のこと」と刷り込まれたりしているわけです。

環境を否定するわけではありません。例えば日本の伝統工芸の職人の世界では、自ら選択してその道に進むのではなく、生まれついた家庭がそうだったから、というシンプルな理由でその道に進んできた人がほとんどだったでしょう。以前テレビのドキュメンタリーで見たのですが、マイスターと呼ばれるある時計メーカーの技師の方、今ではその業界の世界中の技術者から尊敬されているのですが、もともとそのメーカーに就職を決めたのは「地元に工場があった」からだそうです。女性の方なのですが、当時の女性の働く環境は、社会的な背景から選択の幅が狭く、当時の呼称でいう「女工さん」として就職すること以外は当人にとっても思いつかなかったのだそうです。

興味関心のあることをたどっていけば情報が淀みなく溢れ、職業選択の自由を謳歌できる今の環境は素晴らしいことです。しかしブルーオーシャンを開拓した時代の寵児やトップランナーのインタビューなどを見聞きすぎると「あたかも自分だけの好きな道を見つけ、未開拓の領域を切り開くことが人生だ」というようなきらびやかなイメージに脅迫観念を持ってしまう若者も多いのではないでしょうか。

大学でデザインの授業をしていると、自分の個性を見つけたり提示することに躍起になっている学生を散見します。「誰も表現していない新しい表現を見つけたい、人がやっていることと同じことはやりたくない。」そうはっきりと意思表示をする学生もいます。これはこれでモチベーションにつながる大切な意識だと思います。しかし、ときに何も情報を集めていない、やった経験もないうちから、闇雲に個性を作り出そうとする場面に出会うことも多いのです。

特に若いうち、経験がないうちは「まずたくさん真似てみること」を進めています。語弊を承知で言うなら、そして表に出さないのであれば、試しにそのまま気にいった作品をパクってみても良いくらいです。そのまま真似ようとしても、どうしても全く同じに再現することができないことがよくあります。Aを真似ようとしたらA´(ダッシュ)になるのです。Bを真似たらB´、Cを真似たらなぜかC´になってしまう。さんざん真似るだけ真似たあと、これまで気づかなかったけど、俯瞰してみたら自分の作ったものには同じ「´」がついてるなーと気づきます。この勝手に出てしまっていた「´」こそが個性だといえます。

若いうちに、世に出ていないうちに個性をいったん捨てて、良いと思ったものをさんざん真似すれば、その真似の量が多ければ多いほど、自分が影響受けた表現が、頭の中で抽象化・再構成されて、結果パクりから遠ざかります。世に出る立場になってから土壇場であわてて1つ2つのものを見て、ものを作って世に出してしまったら、それは限りなくパクりに近くなります。

人が主張しているような個性がない、自分には見つけられないと不安に思っている人は、いったん焦って個性を探すという行為はお休みしたほうが良いと思っています。仮に社会に入って1年目、2年目だったり、新しい職場に移ったり、環境が変わった人は、その周囲の中で自分の姿が自然に立ち上がってくるのをゆっくり見守れば良いのです。

大事なのは自分に与えられた仕事と、周囲の人がやっている仕事、そして自分をとりまく社会環境(入った会社など)がどの方向に向かおうとしているかをしっかり見極めることです。その中でどんな些細なことでも構いません、あなたがそこで役に立てると思ったこと(最初は共有の場所を掃除するでも、資料を整理するでも良いかもしれません)を見つけて無理のない範囲で行動してみてください。

はっきりしたビジョンが見えなくても、繰り返し作品を作っていくことで、個性という存在が滲み出てしまったように、時間がかかるかもしれませんが、社会との関係性の中でこそ、自分という姿が浮かび上がってくるのです。そしてそれはたった一つの個性ではなく、関係性ごと社会ごとに、違った姿で自分の形は現れて形づくられるものだと思います。最後はその必要とされることが、やりがいになり、自然とそのことが好きになっていたというケースも多いはずです。

実は多くの社会人はそのように育ってきたのだと思います。しかし、先輩になり、上司になり、教育する立場になったりするうちに、その成長課程において性急に個性を読み取ろうとしたり、相手に個性を探させたりしすぎなのかなと考えています。

個性とはその道のりの結果、であり、けして急いで人に見せるものでも、目的にするものでもないのではないでしょうか。



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