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タイで乳がんになった③

タイ語の翻訳小説を出版しました、読んでね。


●不安を抱えてバンコクに戻る
 
東京での再検査の結果、2011年、私は乳がんの初期であることがわかった。
子どもは中学三年生、一年後、海外からの高校受験を控えている。精神的、そして学校生活に負担をかけるわけにはいかない。日本で治療する選択肢も頭をよぎったが、日本には住む家がない、高齢の両親には心配をかけたくない。これからまずは治療に専念しなければならないのに、家を探し、子どもの学校、塾などの手配をする余裕はとても持てないなと判断した。子どもをバンコクに置いて私が一人で日本?という案もあったが、もちろん夫はバンコクで仕事をしているので日本での治療を選択した場合、住い探しから通院その他、すべてを自分ひとりでしなければならない。もちろんいずれにせよ、一番の懸念は受験を控えた子どもの面倒を誰がみるのか、ということだった。
 
●乳がん友だちの自死
 
結局、私は、バンコクで乳がんの治療を開始することに決めた。当時、夫と同じ会社に勤務していた方の奥さんが乳がんで入院していることを知り、彼女に病院や治療についていろいろアドバイスをもらうことはできた。けれど、何しろ当の彼女も闘病中。おいそれと頼るわけにはいかない。そしてその後、彼女は私と会う約束をしていたその日の朝、自宅で自死した。彼女はもう治療も終え、私にお弁当を作って届けてることもあり、優しく私をフォローしてくれている最中だった。もちろん原因はわからない。そして私のショックも相当なものだった。私はまだどこの病院のどのドクターにお願いするのか、どんな治療、そしてどんな経過をたどるのか、わからないことばかり、不安な思いで胸がおしつぶされそうになる毎日だった。それに重なる彼女の自死。
 
●日本語の通じる病院は数少ない

バンコクは中東などの裕福層が大勢治療に来るという国でもある。中東近隣諸国で最もレベルの高い治療が快適に適切な料金やシステムで受けられるのだろう(すみません、このあたりのことは詳細調べていないが、バンコクの大きな病院には、全身黒いチャドルで覆われた中東女性、真っ白の衣装でひげをたくわえた中東男性が大勢いた)。そしてそのような病院しか日本語通訳がいない。自ずと選択肢は限られる。ドクターを選ぶなどというところまで至れるわけはなく、私は日本人御用達の大きな病院でまずは診察してもらうことにした。最初は私の乳がんの進行度合いを調べるところから。日本で受けた結果の細胞を受け取ってきたのでそれを手渡し、再度精密検査をした。
 
●乳がんステージ1とわかった

幸い毎年乳がん検診も含む健康診断を受けていたので、私のステージは1と軽かった。初期である。でもなぜかがんになったときから生存率、というものがとても大きく私の頭を占めるようになる。治療方針を決めるとき、今後の見通しを聞くとき、いつも生存率は何パーセントなのかが気になってしかたがなかった。私が診断を受けたのは2011年なのでちょうど今から13年前だが、信じられないことにその頃はネットでの情報も少なかった。日本で関連書籍を数冊買ってバンコクに戻ったが何せ情報が足りない。もちろんタイ語や英語でドクターの話を完全に理解することもできず、今なら当たり前のスマホなどの翻訳機能も充実していなかった。とにもかくにも情報が少ない。そして今の不安を気軽に話せる場もない。
 
まぁ、がんになればいろいろ大変だし不安。
まだまだ続く。また読んでね。
 
 

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