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『ミルク』について—自作を語る—

 私が本格的な戯曲を書き始めたのは高校演劇を始めてからだった。本格的な戯曲、というのは実際に舞台上で演じられる演劇の台本としての戯曲ということである。戯曲は演じられて初めて完成する。少なくとも私はそう考えている。
 高校演劇については様々な思いがある。感謝もあるし、後悔や恨みもある。高校二年のとき、地区大会に持っていった作品は『ミルク』というタイトルだった。対外的には処女作である『あけぼの』に連なる私の二作目の戯曲となる本作には当時から今に続く私の苦悩が込められている。すなわち、自分にしかできないこととは何だろうということ。
 前作『あけぼの』は地区の中ではかなり評判がよく、また部員からの評判もなかなか良かった。他校の方からも色々と声を掛けられた。
「君才能あるよ!」
「どうやって書いたんですか?」
「この戯曲、練習に使ってもいいかな?」
「是非、一度お会いしてお話を伺いたいです!」

なんてことを何人かの同級生や先輩から言われた。上下関係の厳しい部活で私は当時一年であり、下っ端の中の下っ端だったので、このように尊敬の言葉を掛けられる経験はなく有頂天になったものだ。「いえいえ、僕なんて……」とは言ってみるものの悪くない感じだった。
 私は期待されているみたいだった。しかし、いざ二作目の原稿用紙を前にして、私は様々な迷いにかられ急速に自信を喪失するはめになった。もう駄目だと何度も思った。私はあらゆるものに集中できなくなり、成績も極端に悪くなり、人間関係もうまくいかなくなった。そんなとき……って、これじゃあまるで進〇ゼミじゃねぇかって冗談はさておき……。
 この群像劇の中には演劇部で脚本を担当する高校生という、高校演劇では擦られつくした属性を担った涼平という人物が出てくる。いま、自作を読み直すと、高校生時代の自分と直接対話をしているような奇妙な錯覚に陥る。この作品は《高校生らしさ》で溢れている。技法として稚拙であるというだけではない。高校生であるということの価値観にぶら下がっていれば良かった幸福な時代が私にもあったということだ……。しかし、この作品の登場人物は必ずしも気楽ではない。むしろ、苦悩と苦痛に満ちている。もっと大きな枠組み、新しい価値観を手探りで探している。だからこそ、私はこの作品を未だに否定できない。私は今でも、真剣に生きることについて考えるのが怖い。
 オリジナリティとは何であろうか、それが作品のテーマだった。自分にしかできないことなんて、私には何一つなかった。オリジナリティを獲得するには努力が必要だと私は思った。それは、本当に命を懸けた努力が必要だと思った。その努力の先、まだ誰も発見しなかった峭絶に咲く一輪の花があるのだと期待しながら。
 私は最初、この脚本のタイトルを『暗闇』と設定した。暗闇とは自らの凡庸さそのものだった。そこから歩き始めて、ほんとうの光が見つかるのはいつだろう。しかし、書いても書いても暗闇から抜け出せない論理の罠に私は陥ってしまった。私は絶望的な気分で完成しない戯曲と格闘した。大会は近づいており、部員にも苛立ちが募っていた。そんな中、私はもうこの『暗闇』という作品は根本から間違っているのではないかという疑いを持ち始めた。それに気づいたのは、本当にもうタイムリミットに近かった。私は作品をタイトルから変え、何度も徹夜して一気に書き直した。そうして『ミルク』ができた。我ながら印象的なシーンがあったので引いてみよう。


    音楽(ダンスミュージック)。
    明転。
    河原。
    亜紀・涼平・黒子・那津、それぞれABCDと書かれた白い袋を被り、手拍子をしてリズムを刻みながら入ってくる。
    渉、上半身をはだけた状態で入ってきて、激しく絵を描く。画面はモルフォ蝶、火山、隕石、食虫植物、太陽など様々なモチーフの出鱈目な配置によって構成されており、極めて色彩的でなければならない。また、微妙な明暗による繊細なニュアンスはなく、瞬間的なインパクトをのみを最大にするような絵である必要がある。完成すると全員で拍手喝采。

渉   ふーむ。
A亜紀 うわあすごい。
渉   え、それほどでもないよ部員Aさん。
B涼平 やっぱり渉君うまいなあ。
渉   何言ってんだよ。部員B君の技術にはかなわないよ。
D片桐 評論家Fに言わしてみればカオスの根源とか不条理への問いとかいうんだろうなあ。ねえ、部員Aさん。
A亜紀 それは評論家FじゃなくてFダッシュの方じゃないの部員Dダッシュ……じゃなくて部員Dさん。
C黒子 でもやっぱ才能がちげえなあ。顧問Eが黙っちゃうもわけないよ。
渉   部員C君、この絵は才能じゃなくて努力だぜ。部員C君や他の部員A~Eたちも頑張れば俺みたいになれるさ。
B涼平 Eは顧問だよ。
渉   あ、そっか。
D片桐 才能に溢れていながらも、努力を怠らず、そして謙虚。渉君は人間国宝になるべきだわ!
渉   え? 部員Dさん、まじで言ってるの?
D片桐 マジマジマジだって。
B涼平 ほんとすごいよ。俺たちこれからも渉君について行くよ!
D片桐 うん!

    音楽、「ABCのうた」。
    音楽に合わせてそれぞれが、渉を崇めるような動きをする。渉が手を叩くと同時に全員ストップ。

渉  っと、なるはずだったんだ。

    瞬間、ストップモーションがとかれ、それぞれかぶっていた袋を後ろに投げ捨てる。

涼平 まあ、気にすんなって。万人受けする表現なんてないよ。
渉  でも、合宿だぜ。せっかくこっちが気持ちよくなってるのにさ、あんな酷評されたらさすがに心が折れるよ。
黒子 だから気にすんなって。どうせ、その部員たちってのも大した奴じゃないんだろ。
渉  え、お前誰だよ。まあいいや。
涼平 え、いいのかよ。誰?
渉  でもあいつらの言ってたこともなんとなくわかるんだ。この絵には何か根本的なものが足りない。
片桐 確かに言われてみればそんなような気もするけどねえ。なにが足りないんだろ。うーん。
亜紀 あのさ、ちょっと気になったんだけど、なんで回想のシーン、名前がみんなアルファベットだった?
渉  ああ、興味ない奴の名前、覚えられないんだ。
片桐 興味がなければ無理でしょ。
涼平 あ、それ俺もだよ。
渉  お前、昔っから忘れっぽいもんな。それより、足りないもの、足りないもの。
片桐 なんか、ちょっとした意識みたいなものじゃないかな。
渉  意識?
黒子 どこにフォーカスしていくかってことじゃないか。
片桐 あ、なるほど。一緒に舞台に出ていても、見えない奴っているんだよね。
亜紀 それは黒子でしょ?
涼平 何を描くべきなのか。何が必要なのか。
黒子 何が必要ないのか。


 このシーンには《ABCたちとFダッシュ》という柱が添えられている。長すぎるト書きは、あえてそのまま残して引用した。
登場人物たちはそれぞれABCと書かれた袋を頭からかぶっている。彼らはみな語り手の視点からは無個性である。特別な才能がなければ名前さえ覚えてもらえない。誰からも見てもらえない。そんな焦りがこのシーンには籠められていると思う。
 黒子はこの舞台に登場する最も異質な人物である。「ほくろ」ではなく「くろこ」である。文字通り、舞台の黒子である。黒装束を身に纏い、転換ときに舞台装置を動かしたり、小道具を片づけたりするあの黒子である。それがこのシーンでのみ、いきなり喋りだす。誰もが無個性となったこの場所で、本当の無個性が喋り始める。私はこの黒子というものにある意味で感情移入していて、どうしても喋らせたかったのである。《見えているのに見えない存在》というのが、現実にもいる。例えばそれは私のような凡庸な人間だ。でも、私だって考えている。私の話を誰も聞いてくれなかったとしても、私は考えている。

 私はこの脚本を『暗闇』から『ミルク』に変更した。黒から白への大規模な転換を行ったといってもいい。タイトルの変更には様々な要因があるが、一番大きなことは当初の考え方が創作を通じて変更されたことだ。私は特別な才能や特別な努力がなければ誰からも見てもらえないという殆ど脅迫観念のようなものに取りつかれていた。オリジナリティというのはごく限られた人にのみ許された権利であるかのように。けれども、本当は凡庸さの中にもオリジナリティはすでに宿っているのだということに気づいたのである。町中の雑草にも名前を付ければ特別な何かになる。峭絶に咲く一輪の花は本質じゃない。問題は愛にある。相手の特別さに気づくだけ、相手をよく見るということに意味がある。そんな気づきがあった。その時ふと思い出した小説の一説がある。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の冒頭である。


「ではみなさんは、そういうふうに川だと云いわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊つるした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指さしながら、みんなに問といをかけました。
(中略)
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」
(中略)
「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒つぶにもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮うかんでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい。」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズを指しました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒即ち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれ位あるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭なのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。」


 私は祈るようにして賢治の文章を引用し、『ミルク』という作品を改めて書き上げた。ぼんやりと見える白いものが本当はいい望遠鏡でよく見ると一つ一つの星であるように、特別一等星でなくてもよくよく自分を見つめなおせばオリジナリティは表現できる。そのような立場に立って、平凡とも思える高校生劇作家の苦悩を殆ど誇張せずにありのまま書いた。書く中で何度賢治の文章に救われたか知れない。

 『ミルク』は最近、人間座の主宰する田畑実戯曲賞で一次選考を通過した。報われるこのなかった高校時代の自分へちょっとした賛辞を贈りたい。この作品は地区大会では奨励賞に終わり、あまり日の目を見ることはなかった。私はこの作品が地区大会で止まったことで、高校演劇を劇作家としては引退した。次の年の春は後輩が地区大会の練習として書くことになっていた。高校二年の夏の終わり、私は何とも空っぽの気分で家に帰り、一通り泣いて、泥のように眠った。
 足りなかったものは色々あるだろう。私が回り道をしていた間も周りの人間はどんどん先まで歩いていたのかもしれない。私の知らないところで、周りの人間は努力している。
 でも、いつか誰かに見つけてほしいなとは思っている。


《追記》2023/12/30
この度、戯曲『ミルク』を日本劇作家協会の戯曲デジタルアーカイブに掲載していただきました。下記のリンクから全文を読むことができます。ご意見、ご感想は歓迎です。


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