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【短編小説】Ambient:ぼくはドア前のインターホンを2度押してから、ようやくメッセージを思い出した

ぼくはドア前のインターホンを2度押してから、ようやくメッセージを思い出した。

『部屋にいなかったら勝手に入っといて。鍵は開けとく』と、吉岡は LINE に書いていた。

試しに玄関のドアを押すと開いた。

入ってすぐにキッチンがあって、真っすぐ廊下を進むと部屋につながる扉があった。ぼくの部屋も似たような間取りだった。
廊下の奥、半開きの扉の向こうから冷気が漏れていた。駅から10分歩いただけで汗だくになっていたからうれしかった。クールジャパンと言うわりに毎日毎日ひどく暑かった。

半開きのドアを軽く引いて、まず目に飛び込んできたのは窓の外の線路だった。
荒れ果てていた。来る途中で電車の音も聞こえなかったから、廃線なのだろう。開けた空間で植物だけがいきいきと育っている。

カーテンが窓の両端で留められていた。そのおかげで線路が見えたわけだが、代わりに夏の太陽光が部屋に存分に差し込んでいた。そのせいで上がった室温を下げるために、年季の入った黄ばんだエアコンが明らかに不健康そうな喘ぎ声をだしながら駆動していた。

それは、吉岡が気を利かせていたのではなかった。カーテンを全開にして、老体の黄ばんだエアコンにムチを打つ人物は別にいたのだ。

32型のテレビの前に、柔らかそうな布張りのソファがあった。先客は少なくとも二人は座れるそのソファーに寝転んでいた。肘掛けに小さな頭が載せられ、薄茶色の長い髪が床すれすれまで届いていた。ショートパンツからのびる脚は器用に折りたたまれて、ソファーの上に収まっていた。

白状すると、ぼくはあまりに美しいその脚に見とれていた。

全く無駄のない脚だった。横たわる躰から伸びて無用の緊張がなく、とてもリラックスした自然体に見えた。それでいて、生半可なものを断固として弾き返す鮮烈さが、何食わぬ顔の白い皮膚の下で熱く巡っているのがわかる。脂肪と呼ぶにはあまりにも鋭く研ぎすまされ、筋肉、と呼ぶにはあまりに無害で甘く柔らかそうだった。

「おはよう?」

と声がしたとき、ぼくは誰か三人目の人物がこの部屋にいるのかと思った。それくらいの不意打ちだった。まさか起きてるなんて。

「うわあ!」

修練の足りていないぼくはしょっちゅう今のようなマヌケな声をだしてしまう。

「てっきり寝てるのかと・・・・・・」
「寝てたら、どうするの?」

女は仰向けの躰をぐるっと半回転させた。今度は顎を手すりに乗せて、上目遣いで棒立ちのぼくを見上げる。

「何度も何度もインターホン押したでしょ? うるさくて目が覚めた」
「ごめん」

ぼくは二回しかインターホンを押してない。何度も何度もというのは嘘だ。

「で、からかってやろうって思って」

その目を見ているうちに、その目だけがそのままの光を保ったまま、顔つきや髪型が過去へ退いてゆく。ぼくはすでに思い出していた。高校生のとき以来だから、もう10年も前になる。

「これ、冷蔵庫入れてくる」

ぼくは動揺を隠したくて、持ってきたケーキの箱を冷蔵庫にしまうからと言って、廊下にでた。背中に視線を感じた。

それにしても、どうして吉岡はほかに人を呼んでいることを教えてくれなかったのだろう。あいつ、人を驚かして楽しむようなやつだっただろうか? ・・・・・・いや、ケーキを4つ買ってきてと頼まれたときに気づくべきだった。

部屋に戻ると梨絵はソファーに座り直していた。

「ひさしぶり。高校以来だね」

と言ってみた。おかげで、ひとしきり表面的な会話が続いた。

彼女は知育菓子の営業をやっているのだという。ぼくはスポーツシューズの営業をしている。共通点を見つけたが、さして話は盛り上がらなかった。お互いにあまり仕事の話はしたくなかった。つまり、愚痴の話で盛り上がるにはまだ距離が遠いとお互いに感じていた。

「そういえば吉岡。あいつどこにいるんだ?」
「病院でしょ?」
「病院? どうして?」
「知らないの? 事故ったんだよ。圏央道で追突されたの」

寝耳に水だった。LINE ではそんなそぶり見せなかったのに。

「追突って、どうして」
「さあ。急にムラっと来たのかな。じゃなきゃ、急に後ろから突っ込んでやろうなんて思わなくない? 計画的じゃないことだけはたしかね」
「・・・・・・、無事だったの?」
「まさか。無事だったらわざわざ病院なんて行かないでしょ」
「追突した人は?」
「知らない。でも、死んだとは聞いてないから、たぶん生きてはいるんじゃない。悪人ではないと思うよ、知らないけど」

ずいぶん他人事だ。

「だけど、そんな状態でぼくら邪魔じゃないかな。ホームパーティーなんて、今じゃなくたって・・・・・・」
「今だからこそしたいんじゃないの? 怪我したり、風邪ひいたりしたときって、一人でいると気が滅入るしさ」

数十分後、扉が開く音が聞こえた。ぼくたちはソファーに座ったまま、背もたれにのけぞるようにして、ソファーの右側にある半開きの扉(この扉は一度しめても必ず半開きなるように、不気味な調整がなされていた)のすきまから玄関の様子をうかがった。そこには、病院帰りらしい首にコルセットを巻いた吉岡の姿があった。両手にスーパーの買い物袋を提げていた。

おうおう、と言いながら部屋に入ってきた吉岡は、ニヤニヤしながら首を曲げずにぼくらを見下ろすと、まったくうんざりだ、といった調子で、

「見ろよこのゴルセット。冬ならまだしも、夏にするのは拷問だよ」

と、自分の首に巻き付けられた白いコルセットをこつこつと指先で叩いた。声のトーンとは裏腹に表情は昔のまま、屈託のない笑みが浮かんでいた。

「腹ペコだよ。今からキムチ鍋パーティーだ。こんなクソ暑い日にはうってつけだろ? ほら、冷房をもっと強くして・・・・・・、キンキンに冷やすんだ!」

吉岡は冷房の温度をさらに下げた。

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