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【短編小説】Ambient:喪服は傘を求めて行列をなす地下街

地下鉄のA4出口から外に出た。やはり雨は本降りに変わってしまっていた。
こういう日にはふさわしくないと思って置いてきた普段使いのリュックになら、折り畳み傘が入っていたのに。
雨に煙る視界の悪い街の中に、傘を買えそうなコンビニは見当たらない。ぼくは仕方なく階段を下り、来た道を引き返す。改札を出てすぐの場所にコンビニがあったことを覚えていた。傘の一本くらいなら売ってそうな広さのあるコンビニに見えた。

天井の低い地下街のテナントのほとんどはシャッターで閉ざされていた。郵便局と歯医者だけが、必要最低限の照明を灯していた。他にはなにもない。あるいはかつては栄えていたのかもしれない、という気配すらもう、残っていない。タイル張りの床を抽象的な姿の鳥が無数に飛行している。車に轢かれたか、撃ち落とされたようにも見える。壁には、抽象的な草木の生い茂るジャングルが描かれている。
自分の足音のほかには、改札が電子音とともにゲートを開閉する音だけが地下街に響いている。

ぼくと同じような服装の人間とすれ違った。
一人は営業職らしい整った身なりで、近くで見ると濃紺のスーツだった。次の一人は、顔に見覚えがあったが、ぼくに気づかずに通り過ぎようとしていた。ぼくは引き止めるようにして声をかけた。見たところ手ぶらで、傘を持っているように見えなかった。

木本の振り返った表情に小学生の頃の面影があるかといわれれば正直、自信がない。あれから25年も経っている。消費期限を過ぎた記憶はすでに腐り始めている。
彼のほうはまだ、ぼくが誰なのか分かっていない様子だったが、同じような服を着ていることから、あのころ同じ小学校に通っていた誰かのうちの一人であることには間違いないと、そこまでは気づいているのだろう。ひさしぶり、と声を上げて、多少ぎこちない笑みを浮かべた。
いつ以来かな、元気にしてる? といった湿気った会話にカビが生えないうちに、ぼくは傘のことを話した。すると木本は、

「わざわざ傘買うのってもったいないよな。濡れるのは嫌だから仕方ないけどさ。お金がもったいないんだよ。降るなよ雨、まじで、ごみだろ」

くり返しそう言いながら、僕の後ろをついてきた。

壁に、左肩をこすりつけるようにして立っている人間の後ろ姿があった。ぼくや木本と同じような黒い服を着た女性だった。その姿に水平方向の厚みを感じて、少し位置をずれて見てみると、同じような服を着た人間がずらりと並んでいた。陰に隠れていた行列する黒服の人々は、ぼくらとは反対側のもう一方の端の消失点を、ちょうど改札口から出たときに見たコンビニ付近に置いていた。

「最後尾はここですか?」

ぼくは女性の背中に声をかける。スマホから目を離して、ぼくの喪服をじろっと見て、

「きみも傘を買いに?」

と言ったその顔から、小学生の頃のリスのような面影は乱暴に拭い去られていたが、ぼくにはひと目で山岡とわかった。

「天気予報じゃ晴れると言ってたのに」

ぼくが言うと、木本は小声で、

「天気予報士連中とコンビニ業界の共謀」

と言った。山岡はそのとき初めて気づいたかのように木本の喪服を目で調べた。
衣装の黒さ加減でも見ているのだろうか? 本物の喪服と黒のスーツでは、黒の濃さが違うと聞いたことがある。とはいえ、そんな些細な差に山岡がこだわる理由は思いつかない。
「きみ、木本くん?」と山岡が尋ね「ん」と木本が応えた。

左肩を壁にこすりつけて、慣れない服装のために凝った肩をほぐす時間が続く。外から地下街に吹き込んでくる冷たい低気圧の風と、地底から吹き上げてくる何者かの生暖かい吐息が混ざって、快適な気候が保たれている。

「まあ、葬式向きの天気なのかもな」

つぶやいた木本自身が、声を出さずに震えるようにして笑っている。
そのときお湯で煮たどんぐりのような山岡の目と僕の目が合った。山岡は気まずそうに視線を、壁の中の抽象的なジャングルに暮らす、茶色に塗りつぶされた無毛の猿へとそらした。猿は知恵のありそうな顔で局部に手を当てている。山岡はぼくが誰なのかまだ分かっていないらしかった。このまま永遠に気づかれないかもしれない。彼女の記憶も腐り始めているのか、それとも彼女の記憶の中のぼくが勝手に失踪してしまったのか__。

時計を確認すると、反時計回りに回転する低気圧が秒針を押し留めていた。
真っ黒な行列の中から一つの咳払いが起こった。

「時間、まに合うかな。ぼくの時計はこわれちゃった」
「ここにいる人間みんな遅刻だし、大丈夫でしょ」
「列が動かないのはどうして? 先頭で詰まってるみたいだ」
「新しい傘がまだ来てないからだよ」
「新しい傘?」

驚くぼくを見て、山岡はさらに驚いてみせた。

「知らずに並んでいたの?」呆れた様子で続ける。「とっくに売り切れてるよ。あたりまえでしょ? 今、入荷待ちなの。傘が補充されるまで、列は動かないに決まってる」

木本が鼻を鳴らして「ふん、そしてボロ儲けってわけね。折半なのかそれとも・・・・・・。にしても、人の不幸を商売にする下賤ども」と言い、さらに「天気予報士のせいで、時間まで奪われることになるのかよ・・・・・・」と続けるが、誰も関心を示さない。木本の後ろには誰も並ばず、空白が直立している。

「もうすぐ来ると思う。ほら、耳を澄ますと音が聞こえるでしょ? 台車に満杯に載せたビニール傘を、ここに向かって駆け足で押してくる音。ゴロゴロ、カッカッカッ、て。ゴロゴロ、カッカッカッ、って。」

それは台車と人の足音ではなく、雨水が雨水管を迸る音と、地上を走り去るトラックの振動としか思えなかった。

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