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nero5

 
無慈悲な鉄条網に行く手を塞がれた、とネロは思った。疲労感が早とちりさせたんだね。近づいてみると、人間がやっと一人通れる幅の門がこしらえてあった。門にはピンポン玉くらいの大きさの、自分で光るミラーボールのほかに、<勝手口6>という看板が取り付けられていた。ためしに扉を軽く押すと、何の抵抗もなく開いた。
 鉄条網の奥(内側)には、センサー式の電灯が大量に仕込まれていた。それらは侵入者に敏感に反応して、一斉に点灯した。なかにはネロをこえて、鉄条網の網目からすり抜けそのままいなくなってしまう光もあった。
地面は、雪でもなければしゃばついた泥でもなく、レンガ敷に変わった。地面の確かな反発は、雪の上にはありえないものだった。
草や葉は、オレンジ色の灯りをあびて、体調不良の小学生のように赤黒い顔をしていた。地面に埋め込まれた電球のほかに、電灯も立っていた。まるで樹木の代わりをするかのように。しかしそれらが列をなして道を形成するような気配はなかった。電球は、少なくともネロの目には、全くランダムに、非効率的に並んでいるように見えた。光の濃い所と薄い所が、まだらになっていた。
結局、進むべき方向がまるで分からないので、ネロは直進をつづけたんだ。
振り返ると鉄条網は、一本の横線へと圧縮されていて、見るかげもなかった。
 こつこつこつ、夜は昼間よりも遠くへ足音を運ぶ。それを聞きつけてあらわれた係員たちによって、ネロは取り囲まれた。そのなかの一番偉そうな係員が、ネロを寮にまで案内すると言った。
彼らには優しい所があるらしく、ネロが疲れているのを察して、ネロをおんぶしてくれるような係員もいた。ネロが礼を言うと、係員は少しためらってから、「仕事だからさ」と、そっけない返事だった。


 
 寮の廊下は、焼き魚、あるいは乾いたつばのような匂いがした。
 係員に案内された部屋の扉を開けると、一人の女が、布団の上に横になって雑誌をめくっていた。白くて細長い手足が、今にも布団からはみ出しそうだった。「君の同居人だ」ネロが振り返ると、係員たちは文字通り霧散していた。
「きみ、勝手口から入って来たよね?」女は雑誌に顔を向けたまま、ネロに訊いた。ページの端がよれよれになり、妙に硬くごわごわした雑誌を読んでいる。
「そうなんだ、正門が見あたらなくて」ネロは女の、唐突な質問の意図を考えながら、しかし考えてもよく分からないので、素直にそう答えた。
「そりゃそうよ」女は意味ありげに言った。そして、困惑するネロをまるで嘲弄するかのように十分に間をとって、
「正門なんてないんだから」とニンマリ、怪しげな雰囲気を漂わせながら言った。
ネロが「それは不便だね」と言うと、女はサァッ、とまじめな表情をあらわして。
「正門が一つだけあるより、勝手口がたくさんあるほうが、むしろ便利よ」と言った。
ネロはものわかりよくうなずいた。
 それから女は、ようやく「サンシャイン・ガール」と名乗った。呼びづらいので、「サル」と呼ぶことになった。みんなにそう呼ばれているという。
「お腹空いてる?」
 夕食の時間だった。ネロとサルは食堂に向かった。
 
 サルは背が高く筋肉質で、遅筋が発達しているのか細身だった。腕や脚をむき出しにしていたが、寒そうには見えなかった。ネロもまた、タンクトップにランニングパンツといった出で立ちだった。それはネロが健康少年であるという理由によるだけではなかった。ガスバーナーの子どもたちと別れたあたりから、雪が解け始めて暖かかったのだ。なぜだろう?
サルに訊くと「地面が暖かいからよ」とつまらなそうに答えた。「このあたりの地域の特徴なの?火山活動かなにか?」とネロが訊くと、サルはまさか、と笑った。「そんなわけないでしょ。自然にこんな気味の悪い土地が出来上がるわけないじゃない」
レンガの地面の下に電気のケーブルを巡らせて、ホットカーペットと同じ仕組みで地面を暖めているのだ、とサルは早口で説明した。ネロがその説明から受けた新鮮さを率直に表現すると、サルはうっとうしそうに手を振った。サルにとっては当たり前の日常であり、ネロは新参者なのだ。
 食堂には大勢の訓練生が集まり、おのおの食事をとっていた。ネロとサルは列の最後尾に並んで待ち、食事を受け取ると、そのまま近くのテーブル席に向かい合って腰を下ろした。その席にはすでに二人の先客がいたので、ちょうど満席になった。
 二人の先客、土田陽子と双子双子67は、なにか彼らにとって大切なことについて議論をしていて、ネロとサルはそれに耳を傾けながら、どしどしご飯を食べた。長旅だったんだ、お腹も空く。
 ネロがご飯を口に運ぶために、軽くうつむいている隙をついて、サルは「こっちが土田陽子、そっちが双子双子67」と紹介した。ネロは慌てて顔を上げて、もう一度、どっちがどっちなのかをサルに説明してくれるように頼んだが「どうして二回も説明しなくちゃいけないの?あんたのために」とサルは皮肉な笑みを浮かべて応じなかった。「じゃあ鼻の高い方が土田陽子、低い方が双子双子67ってことでいい?」とネロが冗談半分で提案すると、サルはパンをもぐもぐさせながら、「ああ」とどっちともつかない唸り声を出した。
今日の献立はホタル牛のソテーと、中麦のパンだった。
「ホタル牛って、皮の黒いところと、白いところ、どっちが光るのか知ってる?」
サルはなぜか楽しくなさそうに、クイズを出題した。
ネロが面白いと思って考えはじめた途端に「それは、白い所に決まっている」と、土田陽子が応答した。今までネロとサルの事にまるで興味を示さなかったのに。
けれど、サルは土田陽子の回答を清々しいまでに無視した。土田陽子の方も、シカトされたことに特にこだわるでもなく、すぐに双子双子67との議論を再開した。つまり、けっきょく、何も起こらなかったのだ。
「ネロ、君はどっちだと思うの?正解は?」
「白かな」
「どうして?」サルの目がきらりと光った。
「理由なんかないよ。別にどっちだっていいんだ」
「一つに決めて」サルは視線をテーブルに落とした。
「…やっぱり白かな?」
「残念、正解は黒よ。まだら模様の、黒い所が発光するのよ」嬉しそうだ。
「でも、それなら、何色に光るの? 黒が光るなんて、ちょっと不自然じゃないかな」
「いいえ、白が光るっていうほうが、むしろ不自然よ」
 ネロはとっさに皿の上のホタル牛の肉を確認したが、もちろんすでに皮をはぎ取られた後だった。
「もしかして乳は白じゃなくて、黒かったりするのかな?」ネロはさりげなく言った。
「なによそれ。気味が悪い。そもそもミルクとビーフは牛の種類が違うって事を知らないの?」





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