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【短編小説】プラチナのハート

前置き

一秒ごとに腐敗し、すぐれた嗅覚を持つショウジョウバエやその子孫である色白の蛆虫たちを誘惑する腐臭を放ちだす。
なぜか。
その肉体に備え付けの、有機製の赤い心臓が止まってしまったからだ。
まるで魔法が解けたみたいにどんどん臭くなるから、周囲の人間たちはそれを焼いてしまう。もしくは埋めてしまう。燃焼か分解によって、不都合な現実を目に見えないものにしてしまおうという仕草は極めて理性的で好感が持てる。
だが、科学技術の進歩は第3のオプションとして、新たに「交換」を提案した。
新たな選択肢を選ぶ、死体の知り合いや友達や親族らは、その静止した心臓に未練を感じている暇はない。赤色から灰色へ、太陽に炙られる灼熱の掘っ立て小屋から、月を包み込むシルクのような砂丘へ。
すなわち、溶けかけのりんご飴のように赤黒くベタつく心臓を、冷ややかなプラチナ製の心臓(これは宇宙に浮かぶ送信所より電波を受信し、精確な鼓動を刻みつづける精密機器である)に取り替えることが、画期的防腐剤なのである。
しかし、残念なことだ。
復活した肉体がかつてのような自我を持つことはなかった。
量産体制に入ったそのとき、心臓こそが自意識の発生源であることが実証的に初めて知られた。これは神の遺した致命的なバグだった。副次的に脳の学会価値が下がり、生産元企業の株価はもはや地の底に落ちた。
医師・電子工学者・心理学者・哲学者・精神分析・実業家たちを集めて相談させること、それが生産元の10時間にも及ぶ取締役会で提出された唯一の案だった。13人目の魔法使いのように呼ばれてもいなかった物理学者が、冷やかしにやって来た。とはいえ誰もが予期していたように、物理学者はニヤニヤしているだけで役に立とうとしなかった。
状況を整理すると、電磁式の新しい心臓は正しく機能していて、肉体の腐敗を完全に抑え込んでいる。それにもかかわらず抜け殻のようになってしまった肉体は、決して自らを動かそうとせず、なにも喋らず、糸の切れた人形のように無気力にその場にへたり込んで起き上がる気配がない。
最悪なことに、神を呪うことしかできない有識者たちはバグを、マナーの悪い愛犬家のように、散歩途中の犬の糞をビニール袋に入れて持ち帰らず会議室にほっぽり出したまま解散した。清潔なオフィスに残された犬の糞は換気扇をあざ笑い、元気に永遠に悪臭を放ち続ける。取締役の年寄りたちは落胆する。
この糞、すなわちバグはただちに人口に膾炙し、心臓交換はまったく実用性を欠いた生命倫理に対する悪質な悪ふざけとみなされた。そして、無用なものに厳しく、有用なものを礼賛する人間社会から排斥されるかと思われた(ぼく(ピルスト)も当然そうなると思っていた)。
が、製造元企業による社運をかけた営業活動によって、人工心臓事業は医療とは異なる分野に活路を見出すこととなった。取締役の年寄りたちは胸をなでおろした。
さて、以下に続くのは、プラチナ製の人工心臓が普及した時代に「実際に」起こった出来事を過剰に誇張した、一つのノンフィクションである。

恋人の実家の庭に、倉庫があった。
正確には昔は倉庫として使われていて、今は恋人の私室になっている。なんのための部屋かといえば、彼はそこで毎晩マスターベーションをしているらしい。恋人の母親が私に教えてくれた。
年季の入ったプライベートルームは、台風のたびに吹き飛ばされそうになっていた。
「次のボーナスで建て替えたら?」
と私は提案したが、彼は了承しなかった。なんだかんだ堅牢なので、建て替えるのはもったいないのだという。
「それに、もっと他に欲しい物もあるしね」
それがいまだ忘れられている私への誕生日プレゼントではないことは明白だった。2ヶ月前に、ただの平日として過ぎ去った私の25回目の誕生日。私はこのことをぜんぜん気にしていないが、恋人の誕生日に私はプレゼントを贈っている。
「豚小屋みたいにすぐ吹っ飛びそうだけど」
私が言う。
「豚小屋?」
「『三匹のこぶた』の小屋。狼の鼻息でどこかに飛んでいっちゃいそう」
「まあ、あれは豚が自分で作った小屋だからね。たかが知れているよね。ぼくのは、人間が作ってるから見た目より頑丈だよ」
このあいだの台風13号が本州をジグザグに通り過ぎた夜、堅牢さを確かめるために私たち二人はその小屋に潜り込んだ。私が小屋に入るのはその日が初めてだった。
天井からぶら下がるランタンをつけても薄暗かった。窓がないから扉を閉めると密室になる。
「通風孔は作ったんだ。そこから大きい虫が入ってきて気持ち悪かったから、フィルター付きのパイプを通して対策した」
と自慢げにいう。
土臭い倉庫の匂いがした。倉庫らしい中身は排除されていたが、まだ居住空間と呼ぶには質素すぎて、貧乏ミニマリストの部屋のように退屈だった。インテリアと呼べるものは赤のYogiboしかない。居心地は悪く、座り心地は良かった。私たちは二人で一つのYogiboを使った。かなりアクロバットだったと思う。自然と抱き合う姿勢になった。
壁を叩く暴風雨がうるさかった。遠雷の音だけがかすかに聞こえた。
壁が湿度でうっすら濡れていて、その壁全面に、油性ペンとクレヨンを使った絵とも字ともつかない奇妙な図形が描きこまれていた。そんなマイケル・スコフィールドのような壁を恋人は「内側に掘るタトゥー」と私に説明した。深遠じみた思想があったのかもしれなかったが、私には全く理解できなかった。
菓子パンやチョコレート、缶チューハイで二人きりの夜を彩った。それは実際問題、あまりにも素晴らしい時間だった。くだらない話に花が咲いた。その花は私たち二人の他には誰にも見られていない秘密の花だった。今でもそのくだらない花の形や色、香りを思い出せる。
私は薄く扉を開いて、腕を突き出した。指先で摘んだ一輪の花が風で激しく揺れるのを感じていた。
尖った雨粒が、私の皮膚をチクチク刺してきた。裸足で砂浜を歩いているような気持ちよさがあった。
やがてとびきりの大きな風が吹いたとき、私は指の力を抜いた。くだらない形の花は、真っ暗な空に吸い込まれてゆく。消えてゆく。後腐れがなくていい。
扉を閉めて、ランタンの電気を消した。代わりにアロマ・キャンドルに火を灯した。薄いバニラの香り広がる。
風が、暗闇の中の毛深い獣のようにけたたましく遠吠えする夜にまぎれて、私たちの咲かせたくだらない色の花びらが、若さを盾に休みなく舞い続けた。
数日後、恋人は首を吊って死んだ。

遺品整理、という言葉が持つ響きほどには張り詰めていなかった。
義母の泣きはらした目から私は視線を外した。いたたまれない気持ちで見る床や地面の色に新鮮さを覚えた。
「いま思えば、あの子のこと何もわかってあげれなかったのかもしれない」
と義母は言った。
それはつらいことだろうな、と思った。これからも一生、分かることはできない。問いに対する答えを探すどころか、問いが消えてしまったから。
そんな二の句に、想定外の言葉が続いた。
「地下室を見てもらいたいの」
「地下室って、どこの地下室?」
「あの子の小屋の下にあるのよ。自分で掘って作ったみたい」
居間から縁側に降りて、誰かのつっかけを履いた。そのまま小屋に向かうと、あの日の赤いYogiboが外に放り出されていた。どことなく乱暴な印象だったため私は反感を持った。思い出をないがしろにするのは陰湿な行為に思えた。
だが、かつてYogiboがあった場所、台風の夜に私たちが座っていた場所の真下の地面に板が貼られ、それが地下室への入り口になっていたのだった。地下室が実在したことで、義母がまだ正気であることが分かり少し安心した。
一人しか入るスペースがないのだという。私は一人で狭い穴を降りた。扉などはなく、階段下がすぐ地下室だった。土の壁に服が擦れた。
外からの光は届かず、重く湿っている。
スマホで照らすと積み上げられた無数の本が目に入った。カタコンベの人骨のように、土に同化しかけた状態で散らばっている。
私の身長ほどに積み上げられた本の塔の一部は、崩れてしまっている。恋人はどちらかといえばきれい好きだった。だから、死んだあとに秘密の部屋を荒らされたら嫌な気分になるだろう、と想像した。恋人にはもう本を整理することはできない、なぜなら……。そう考えるとさらに気分が落ち込んだ。
少し時間を置いて気持ちを切り替え、恋人の代わりに片付けてあげようと本を拾い始めたまさにそのとき、私は思わず声を上げてしまった。
本の山の中に、首にロープを巻き付けたままの恋人が白目をむいて倒れていたのだ。
私は恐怖のあまり階段を駆け上ると、外でYogiboに深く座る義母を問い詰めた。私の剣幕に、しかし義母は動揺する様子もなく「驚いたのね?」とあっけらかんとしている。その後、私は義母を散々に口汚く罵ったのでやがて落ち着いた気持ちを取り戻せた。ここに罵倒の文言を具体的に並べるのは恋人のためにも差し控える。
「あの日」と義母は私が落ち着くのを見計らって、滔々と弁明を始めた。「虫の知らせを聞いたのよね」
 ……、義母の話を要約すると、あの日の昼過ぎ、急にどこからか沸いて出た手のひらほどもある巨大な蛾の群れが、大量の鱗粉を神棚の上に撒きちらしたのだとう。積もった粉の重みで壁の留具が外れ、神棚は音を立てて床に落ちた。神鏡や皿が仲良く割れて、破片が元気よく四散した。このような、上品とはいえない乱暴な知らせのおかげで、義母はなにかしら、想像のつくなかで最も恐ろしいことが起ころうとしているのではないか、と直感した。結果だけを見れば、義母は息子の死を止めることはできなかった。その代わり、あることには間に合った。一方で私は、何一つ気づかなかった。蛾は私の部屋には来なかった。
義母が地下室を突き止めたとき、心停止から5分と経っていなかった。天井から垂れるロープを切って息子を下ろし、すでに静止していた心臓をささっと手際よく、プラチナの心臓に交換してしまった。
「その、プラチナの心臓ってなんのこと?」
私はこのとき初めてプラチナの心臓という言葉を聞いたのだった。
「昔の流行よ。今となっては忘れられてしまっているけれど、昔はとても良いものだったの。不老不死って、やっぱり人類の夢なのね。当時は、医師・電子工学者・心理学者・哲学者・精神分析・実業家たちみんなが、これ、つまりこれっていうのは、心臓のことね、これが、いい商品だって宣伝してたの。物理学者だけは懐疑的で、ワイドショーなんかで批判してたけど、まあ、誰も物理学者の言うことなんて聞いてなかった。だけど、実際に使ってみてびっくり」
「どうなったの?」
「肉体が腐らなくなる」
「それだけ? それだけのために、死体から勝手に心臓を引っこ抜いたの?」
「入れ替えたからって復活するわけじゃないから、宗教的にはセーフだと思うの」
「でも、火葬にするんだよね? それなら結局のところ、無駄にあの人の体を傷つけただけにならない?」
「ツタンカーメンのお墓みたいなものよ」
「なに?」
「あのね、ツタンカーメンのお墓を想像して欲しいの。あの墓には、たくさんの宝飾品が入ってたのよね? つまり、愛されてた証拠。同じなの」
「なにが同じなの?」
「そんな宝石ばっかりいっぱいあげるわけにはいかないけど、代わりにあの子にはプラチナを、ね」
「意味がわからない」
「冗談よ」
「冗談の意味がわからない、って言ってるの。ツタンカーメンなんて、世界一くだらないカタカナだ……」
「ハート型のプラチナって、骨壷に入るのかしらね。というか、プラチナの融点って何度かしら……」
「私は今、悲しいんです。いいえ、ずっと悲しいんです。それなのにこんな話をして、頭がおかしくなりそう」
「真夏だものね。こんな日向にいたら多少は頭もおかしくなるわね」
これまで聞こえなかったのが不思議なほど唐突に、蝉の鳴き声が大きく聞こえてきた。急に、どこへでもいいから帰りたいという気持ちになった。
「帰ります」
「待ちなさい」
義母は私の手首を握った。腕時計の上からわざとぐっ、と握ってきた。痛みより、あえてそのようにする人間性に対する不愉快が勝った。
「くそ、放さないと腕を叩き折る!」
「あなた、あの子を置いていくの?」
「どういう意味?」
「あの暗い地下室で本なんかに埋もれて、かわいそう。ねえ、あの子を置いてきぼりにしないであげて」
「置いてったのはあの人の方でしょ?」
「そうかもね」
義母は私の手首を握る力を弱め、電池が切れたかのように大人しくなってしまった。
「……ちゃんと普通の葬儀の手続きをすればいいの。それだけのこと。大変なら私も手伝うから」
と私が言うと、義母の黒黒した目がきらりと光った。
「手伝ってくれるのね。それなら、あなたにはこのマニュアルを読んでほしいの」
「なにこれ?」
このご時世、珍しいほど分厚い紙のマニュアルだった。
”2級プラチナ交換式脈動装置 品番:s-h2a1003 取り扱い説明書”
と表紙に書かれている。
「燃やしたり埋めたりしなくても、死体とずっと一緒にいる選択肢もあるってこと」
数ページ読んでわかったのはそのテキストが、科学的死霊魔術書のようなものだということだった。いにしえの開発者たちはプラチナの心臓を単なる防腐剤ではなく、復活のための心臓として製造していた。
「母親の私より、恋人のあなたと一緒にいたいと思ってるはずよ」
私たちは協力して恋人であり息子の体を、地下室から引っ張り上げた。恋人は人形のように無抵抗だったが、体にはぬくもりがあって、脈もある。2つの乳首の中間に、人工心臓のインターフェイスが見えている。太陽光をぎらぎらと反射する。
義母のN-BOXに乗せて、私のマンションまで運んだ。
管理人は大きな荷物を運ぶ私達を疑ったが、Yogiboの中に隠した死体はついに見つからなかった。
死体は私の部屋に転がり込んだ。
義母はさっさと出ていった。もう夕飯を食べ始めなければならない時間なのだという。

科学的死霊魔術書マニュアルのページが勝手にめくられないように、テーブルの上でジェルネイル用のUVライトを重しにしている。
恋人のプラチナの心臓の蓋は赤銅色に輝いている。蓋を外すと、心臓の内部を覗き込める。光の無い真っ暗闇が奥に続いていて、先は見渡せない。
私はその暗闇に鼻が触れるくらいまで顔を寄せて、はっきりした声で喋りかける。あくまでもマニュアル通りに。
「きみはそこにいるの?」
窓の外で鴉が鳴いている。返事はない。
「そこはどんな場所なの?」
沈黙。もう一度マニュアルを確認して、かけるべき言葉を探す。
網戸から黄昏の非現実的な懐かしさのある風が吹き込んでくる。
恋人の死体は今、座った姿勢で壁に立てかけてある。横に倒れないように、くたびれたYogiboで脇を支えている。両足はまっすぐ延びて、頭が前に垂れている。もし毛むくじゃらならテディベアに似る。
「私のことを覚えてない? 私はずっと覚えているよ」
この返事のなさについて、ネットで検索してもろくな情報は出てこなかった。情報が無いわけではない。それなりにあるが、すべてが埃を被っていて役立たずだった。死体の復活など科学的にありえない、とか、何度やっても意識は戻らなかった、とか、そういう主張やレビューばかりが氾濫している。
ありえない、というのはとっくに承知している。その上で、どうにか意識を戻したくてやっている。
私は、それらの情報の、さらにその先の情報が欲しかった。
あくまでもマニュアルの手順に従って続けた。
「去年、嫌がるきみを連れて長瀞にいったよね。覚えてる? 流れる川を見て『これは忘却の川だ』ってきみは言ってた。太陽の光をぴかぴか反射する川を見て、最初に言う言葉じゃないと思って、私は、じゃあ泳ぐ魚は忘れっぽくなってるの?って訊いたよね。そしたら君は『魚には言葉がないから、確認する方法がない』って。そのときはたしかにな、と思ったけど、もしたとえば毎日同じ時間に同じ場所で餌を与え続けたら、魚はそれを覚えて、きっと日に日に集まってくる魚の数が増えたりするよね。つまりそれって、餌をもらえる時間と場所を、魚たちが覚えたってことにならない? そしたらさ、魚に言葉がなくても記憶はあるってことになるから、あの川が忘却の川なのか、それともただの川なのか、証明できるんじゃないかって思ったんだよね」
そのときスマートフォンが鳴った。中学のころの友人からのLINE通話だった。
直近、私の恋人が首を吊ったことを友人は知らない。もし知っていれば、飲みの誘いなどする性格ではなかった。
私は銀色の、見た目ほど重くない蓋を戻した。当然ながらぴったりと嵌ってくれた。
開きっぱなしのマニュアルはそのままに、戸締まりをして、玄関扉に外から鍵をかけた。
おあつらえ向けの安居酒屋で埃っぽい味のコークハイを二杯飲み、トイレで胃の中身を戻した。三角形の蜘蛛が壁を這っていた。
酔ってはいなかったが、頭の中は泥水のようにひどく濁っていた。

死体との同棲が始まってすでに一週間。仕事から帰ると部屋に両親がいた。
実家は快速列車で約一時間ほどしか離れていない。だから呼んでもないのにたまに遊びにやって来る。でも、予告なしで来るのは初めてだった。
「あら、おかえりなさい」
「なにしてるの?」
「急に娘に会いたくなったんですよ」と、冗談を言うときの真面目くさった表情で母がのたまう。「ね、お父さん」
父はスマホゲームに夢中だった。もう10年以上、スマホで野球選手を育てて楽しんでいる。父はそれ以外の娯楽を知らないかのように、そのゲームをやり続けている。
苦しそうに顔を上げて、
「笹麻くんのお母さんから連絡があってね。大変だったろう」
とだけ言うとすぐにゲームに向き直った。
笹麻くんのお母さん、つまり義母が、私の両親を呼び寄せたのだ。それにしても、大変だったろう、か。
「お父さんったら、すぐ本題に入ったらつまらないじゃないですか。まったく、退屈な人ですね」
「何をいまさらじゃないか。私は生まれてこの方ずっと退屈な人間だよ。ちなみにこれからもずっとね。おかげでこんなに人生は幸せだが」
母は眼鏡越しに私を見上げて、
「あなたの父親は無欲なのですよ。欲がないことがこんなにも人を惨めにするって、あなた知ってました? ていうか、座ったら?」
私は仕事から帰ってきたままの姿で立ちっぱなしだった。私の家なのに。
立ったまま、
「だから、なにしに来たの?」
と訊いた。
母親は目を伏せて言った。
「いい子だったのに。いい子にほど、この世界は鋭い牙を剥くんですね。ああ、残酷な世界!」
「もしかして、お義母さんがなんか言った?」
「ああ、あの|女<ひと>のことを『おかあさん』と呼ぶのはやめてください。あなたは私だけの娘でいてほしいのですよ!」
それを聞いた父が笑い声を上げて、
「お母さん、それこそ欲深いというものだよ」とやりかえした。
「いいえ、もっと論理的な話です」
母はぴしゃりと撥ね付ける。
「なぜなら、音だけを聞いていたら『おかあさんがおかさんから話を聞いた』ってことが成立してしまいます。私が私から聞いた、なんて、哲学かオカルトのどちらかでしか説明できない事象じゃないですか?」
「考えすぎなんだ。もっとシンプルにならないとだめだね。仏教を参照するまでもないけど、雑念が欲を産むんだから」
恋人は朝、私が家を出たときと同じ姿勢で座っている。
「ねえ、私だけを『おかあさん』と呼んで、彼女のことは『ぎぼ』って呼ぶことにしてくださいな。ね、お願いよ」
「あはは、まだ言ってる」
膨らむ父親の笑い声を叩き割るつもりで、私は少し大きな声を出す。
「わかったから、わかったから、で、用がないなら、そろそろ帰ってくれないかな?」
「用はあったんけど、実は、もう終わったんだ」父は朗らかに、私の恋人に視線を向けた。「彼に会いに来たんだよ」そのあと、母に視線を向ける。
「あ、もう。またすぐに言っちゃうんですね。もうすこしこの子が『何しに来たのよ!』って怒り出すまで泳がせても良かったんじゃないですかね?」
「会いに来た、ってどういうこと?」
「彼、ちょっと頼りないところがありますでしょう? ちょっと喝をいれてあげようってことになりました。サンデーモーニングみたいに、もしくはあっぱれ!」
「なりました、っていうか、母さん一人でそう言い出したんだけどね」
「あら、なんですか。お一人で責任逃れですか?」
「お母さんは黙って。お父さん、どういうこと?」
父は横目で母を伺いつつ、私の質問に答えた。
「だから、その、まあ、笹麻くんのお母さんがね、教えてくれたんだよ」
「なにを?」
「成功したって」
「なにが?」
「なにかしらですよ」
「お母さんは黙ってて」
私は、二人を睨み下ろす。二人とも観念したようにしゅんとした。
「ぼくたち、世代だけど、実際に入れ替えに成功した人を見たことがなかったから。どうしても見てみたくて、来ちゃったんだ」
ぼくたち、と言っているが、きっと見たがったのは母だろう。
「それにしても、うまいこといったんだね。本当にまだ生きているみたいだよ」
「生きてる。まだ目覚めていないだけで」
「血色も良さそうだね」
と、言いながら父親は私の肌色ばかり見ている。
「悪いけど疲れてるの、用が済んだなら帰って。電車ある?」
「車だよ」
「そう」
父はジャケットを羽織り、母を立たせると去り際に「大変なら、休職して家に戻ってきても大丈夫だよ」と言った。
「状態が良いから、良いプレイヤーになりますよ」と嬉しそうな母は「あとでURLを送ります」と言った。
扉が締まる音を聞いてから、鍵を閉めるために玄関に行くと待ち受けていたかのように勢いよく扉が開いた。
母の顔が隙間からひゅっと覗いて「冷蔵庫に食べ物とかお酒を入れといたから。ちゃんと自炊もしなきゃだめですよ」と言った。「あと、鍵はこっちで締めるから大丈夫です」
それでやっと、両親は去った。
ため息をついていると早速LINEにURLが送られてきた。「屍舞踊プラチナコンテスト(Platinum Dancing Contests for Animated Corpse:PDC)」の公式WEBサイトのリンクだった。

PDCは、3つの競技の総合点を争う。
それぞれの競技は、死体の「脳機能がもたらす整頓された概念操作」「力への意志」「各種ダンス」を測る内容となっている。厳格な採点基準のもと、7人の審査員の評点の合計によって順位が決定する。
「どう思う? あなたはどうしたい?」
私は、恋人の銀の心臓の奥に続く暗い廊下に声をかける。私の声に反響は無く、深い井戸の底に似た暗闇への永遠の落下を続ける。
「もしかしたら、外に出たら気分が変わるかもしれないよ。太陽の光とか、西から吹いてくる風を浴びれば、気分も良くなって、自分でその辺を歩き回りたいって思うようになるかも。だって、あなたがまだ生きていたころは、とても歩くのが好きだったでしょ? 歩きながら、私には何が良いのかさっぱりわからない風景をスマホで撮って、とても嬉しそうだった。私は、あなたが嬉しそうにしている理由はよくわからなかったけど、でも嬉しそうにしているのを見ているのが好きだった」
私はもうマニュアルを見なくても、次にするべきこと、言うべきことがわかっていた。最後の手順のあとには、これで意識が戻る、と書いてあった。でも、戻ってこなかった。
それで私は手順の最初に戻って、もう一度やり直す。具体的な文言を少し変えながら、数週間、何度も何度も繰り返している。
「あなたがやりたいようにやればいいと思ってるの、本当に。後悔のないようにして欲しい。だって、あと少し遅かったら、肉体が腐り始めてしまっていたんだよ。こうして、なにも失うことなく生き返ることができたのは、きっと、やり残していることを終わらせるためだったんじゃない? こんなのって非科学的かな。だけど私はそんな風に思うよ」
きっと命にそんな合目的性なんてない。ただ、偶然つながった命というだけ。思い込みとは蒙昧さであって、物事を複雑にしていく一方でなにも解決しない。恋人はきっと、そんな風に答えるだろうと思った。
私は、プラチナの蓋をしめた。
私はすでにPDCの予選会に応募していた。今日はそのために必要な脳移植の日だった。
データ移行料金も含めるとプラチナの脳は安い買物ではない。ヘッドギアで直接脳内に電気信号を送る方法のほうが廉価だったが、見栄えが悪い。古臭いフランケンシュタインのようになって化け物じみる。「見えないところもプラチナ製に。そんな心遣いに愛があるの。」というのが、プラチナの脳の広告の文句で、まんまと購買意欲をかきたてられた。
予定より15分も早くインターホンが鳴って、モニターに義母の顔が映し出された。二人がかかりで恋人を台車に載せ、姿勢が崩れないように体育座りにしてロープで縛った。エレベーターでフロントに降りると、管理人が待ち構えていた。
だが、マンションの若い管理人は義母に懐柔されていて「これが生きている死体なんですね、すごいなあ」と、じろじろと恋人を眺める。義母は自慢げにしている。
「古き良き時代を、感じるでしょう?」
N-BOXのトランクに載せるのを管理人に手伝ってもらって、駅前の貴金属店に車を走らせる。
店の駐車場に職員が待ち構えていて、裏口に案内された。表口は貴金属店だが、裏に回ると簡易的な外科手術が可能な、無機質で清潔な空間があった。備え付けられている道具のラインナップからすると、病院というよりはガレージが近い。
交換人(執刀医と呼ぶことは禁止されている)は、最終確認として恋人のおでこを数回ノックした。このときの反響音で入れ替える脳の大きさを測定する。
「やはり、最も小さいサイズの脳で十分ですね」
と処置対応者は言った。
どのサイズでも同じ値段のため、小さい方が損をしている気分だったが、口には出さなかった。
処置を待っている間、義母は私に、
「もしだめでも、気を落としてはだめ。お金は失っても、努力したという結果は残るわ」
と言った。
「PDCだけど、あの人が嫌がったらすぐ辞めるつもり」
「嫌がろうにも、どうやって意思表示をするの? あなた、死体の読唇術でもする?」
「お金のことはなんとも思ってない」
「私だってそう。お金の使い方は人それぞれよ。でも、ヘッドギアの安いやつでも良かったんじゃないかって思ってるの、いまさらだけどね。ああいうのも、最近は機能が充実してるらしいし」
「でも、醜い姿にさせたくない」
「それは、いい心がけよ。愛がなくなったら元も子もないもの」
処置は無事に終わった。交換に伴って髪の毛が剃られてしまったから、人形屋に行って毛髪移植をしなければならない。
とはいえ、予選会には間に合いそうだった。
最高のコンディションに仕上げて、晴れ舞台にしてあげたい。

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