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nero 7


 ネロはいそいそと起き上がり、いつもサルが眠っているはずの布団に何気なく目を向けた。しかしそこにサルの姿はなく、明らかに異なる容姿の女が眠っていた。女はまるでネロの視線を皮膚で感じ取ったかのように、瞼をはねあげた。それはばね仕掛けのような激しい勢いだった。
色の薄い眼球が、かすかに揺れ、ネロの目玉を捉えて静止した。
「だれ?」と女はネロに、険のある声で質問した。
「きみはサル?」とネロは女の質問を無視して訊ねた。すると
「私はサルじゃないでしょ?」と女は一転して、不安そうな震える声で訊き返した。「私はサルじゃないわよね?」
ネロは「ちょっと見るかぎりでは、君はサルじゃないように思うけど…」と率直に、少し慌てて答えた。
「だったらどうして、さっきみたいなことを訊くのよ。私はフキダ・マリよ」
「でも、どうして君はそこで眠ってるの?いつから?そこは昨日まで、サルの布団だったはずだよ」
 マリは寝返りを打つと、長い髪の毛で横顔を隠した。それからネロが何を言っても、マリは石のような態度を貫いて、一切反応を示さなかった。
 ネロはマリを置いて、食堂へ向かった。外では地面から放たれた蒸気によって、大気が霞んでいた。草の匂いがする。暑さのあまりインナーシャツを脱いだ。その直後、ナイフのように冷たいつむじ風が、ネロの脇腹をかすめた。
食堂はすでににぎやかだった。ネロは食事をもらうための列に並んだ。
山田陽子・洋子・葉子の3人、そして双子双子43・67・179が、テーブル席に座って議論をしているのが、ネロの位置から見える。4人席を、窮屈そうに肩をこすり合わせながら詰めて座っていた。仲良しなんだね。
「ヴィラーサは、地面の中にいるんだ。生物学的には、もぐらとほとんど同じなんだっけ」
「まさか、ヴィラーサがもぐら科だとでも言うのかい?何度も言うけど、ヴィラーサは空を飛ぶ生き物だ。こうもりなんかが遠い親戚だったはずだよ」
「違う違う、例えばウイルスは、生き物というよりは、物質だろう?ヴィラーサはそういう存在だよ」
「ひとつ面白い話がある。海にいる生き物は、地上にあがろうと思えばあがれる。それは進化の歴史を見ても明らかだ。一方で地中にいる生き物が、地上にあがってくるなんていう話を、聞いたことがあるだろうか。ミミズは地上でのたうち回って死ぬし、モグラは光で目をつぶす」
「しかしそれは、自然環境の問題じゃないか。地上の方が快適になったらきっと、ミミズは地上でダンスをするし、モグラはデッキチェアに座って日焼けを愉しむさ」
「しかし、未だに誰もその姿を見たことがないという現実がある。空や地上にいるとしたら、我々の目に入らないはずがないじゃないか」
「我々の目に留まらないのはきっと、透明になれるからだ。もちろん、完全な透明ではなく、我々にとっての透明だ。つまり、我々はまだ見方を知らないだけなんだ」
「もしかしてヴィラーサという名前が間違っているのでは?間違った名前で呼ばれて、誰が振り返るだろう」
「名前なんかにこだわるなよ、そんなのは古い慣習にすぎないんだから」
「そもそも存在しないのではないか、と思うことがあるよ。だけど、こうして考えることができている以上、幽霊と同じで否定しきれない」
「幽霊はいるのではなくて、あるのだ、という事に注意せよ。それは効果の名称だ」
「おいおい抽象化に逃げるなよ。問題は実際問題としてのヴィラーサだろ?」
「そうさ、そんなのは自閉的なナルシズムじゃないか。ヴィラーサをだしにして、自分語りを始めようっていうんだ。いいわけ名人だな」
「ああ、言葉遊びはもうたくさんだ!結局は全員嘘つきだってことさ」
「おれの言葉だけは、理由は分からないが、どうもほかと比べても厚みがあるし、真実らしいな」
「何を言っているのか分からない。まるで、それぞれ別の言語で会話しているみたいだ。これからはもっと厳密な言語でもって会話しないか?」
 5人はテーブルにあがると、つかみ合いの喧嘩を始めた。だけど、みんな自分だけは机の上から落ちないようにと注意を払っていたから、それはぎこちないダンスみたいになった。殴ったり蹴ったりの大きな動きの反作用で自分が落ちてしまうのを防ぐために、彼らはつねったり、ひっかいたり、噛みついたりして争った。結局、耳をかみちぎられた洋子が、緊張を破るような哀れな声で泣きわめいたのをきっかけに、喧嘩は終わった。その泣き声が食堂内を響き渡っているあいだに、ネロは食事を終えた。

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