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nero10



 街は、ネロが前に通り抜けた駅のある街とは違って、人の気配があった。人々は、あらゆる場所に点在する泥の塔と、家の屋根や倉庫、窓のさんなどの間に張り巡らされたひも状のものを利用して移動をした。そのため地上には、なんの跡も残っていないまっさらな雪が、ふんわりと積もっていた。
 マリはあらゆる方向に延びるテープの中から、一本の黄色のテープを選んで乗り換えた。ひとつの泥の塔には、色分けされたたくさんのテープやロープが様々な方向へ花火のように開いていた。中には千切れてだらり垂れ下がっているものもあった。
「行きつけのお店があるのよ」マリが黄色のテープの張り具合を確かめながら言った。「うん、まだやってるみたいね」
街の人たちはほとんどが老人で、不安そうな目をして、いつもきょろきょろしていた。マリが微笑みかけると、みな頬を緩めたが、その目から警戒の色が消えることはなかった。
 ときには反対側から歩いて来る老人とすれ違うことになる場面が生じた。老人は両足と杖を器用に使って歩いて来る。ネロとマリはハンガーのようにテープにぶら下がって、老人に道を譲った。間違えて二人の手を踏まないようにと、老人は「ほ、ほ、」と言いながら、足を運んだ。老人が通過してしまうと、二人はテープの上へ這い上がって、先を急いだ。
 テープは滑り落ちないぎりぎりの角度の上り坂を作っていて、二人を少しずつ上昇させた。テープは一軒のログハウスの屋根に接続していた。
 屋根に上に立った二人は、慎重に滑り降りて、開け放たれた二階の窓をくぐって中に入った。一緒に雪が中に入ってしまったが、床には先客が招き入れたであろう雪が、すでに黒く固まっていた。床板が濡れている。カウンター席に並んで腰を下ろすと、店主が煙草を灰皿に押し付けて「サルちゃん、久しぶりだね」と言った。
「サルじゃないわ、マリよ」マリは援護を求めるかのような少し不安げな目で、振り返ってネロを見た。
「そういえば、見た目がまるで違うね」
「そうでしょ」
「ぼくも初めは分からなかったんだよ」
 しかしネロの発言は意図的に排除された。マリと店主の間に、二人だけの空間が形成されつつあった。ネロは体を反転させて店内を見回した。テーブル席にはそれぞれ異なるチームの野球帽をかぶった男たちが、泥に似たものをグラスに注いで飲んでいた。彼らはその飲み物のあぶくによって、鼻の下に髭のようなものをこびりつかせていた。
「いったいなにを飲んでるの?」
「泥だよ、泥に決まってるじゃないか」と、聞き耳を立てていた店主がネロに言った。ヒャ、ヒャとマリが笑い声を立てた。野球帽たちはネロの方を見て、にやにやしている。うち一人は、わざとらしくグラスを口に運ぶと、ネロの目をじっと見ながらゆっくりと、ごくごく喉を鳴らして、自分の泥を飲みくだした。
「やけに退屈そうじゃない?」と店主が何もなかったかのようにマリに言うと、店主とマリの間の特別な空間が作り直され、店内の空気を圧迫した。「退屈も退屈。いいことないし」「ちゃんと遊んでる?」「もちろん、だけど退屈なの」「遊びかたが下手なんだよ。なんなら、教えてあげようか、新鮮な遊びを」「楽しいって感じることはあるのよ。でもね、それは、『このオレンジいい匂い』とか『痛い、このささくれ』みたいな感じで、表面的なのよ。ほんとうの実感がないのよ、なんにも」「マンネリになると、そういうふうに感じるんだよ」「ねえ、この店あつい!冷房入れてよ」「男が増えるとこうさ。暑苦しいったらない」「冷房ないの?」「君は上着を脱いだ方がいいな」「汗出ててきた」「窓開けるか、冷房つけるか、どっちがいい?」「冷房。外の空気って。なんだか乱暴だもの」「それじゃ、このコインの表が出たら冷房、裏が出たら窓。いいね、それっ――」「アッ、…これ表?」「いや、裏だよ」「違うわ、この模様がある方が、表よ」「違うって、逆だよ。君はそもそも逆に覚えてるんだ」「そんなはずないわ」「いや、そうなんだよ」「…どうして、こんなコイン使ったのよ」「これは、共通貨幣だぜ…」「――
「あんた、ヴィラーサって知ってるか?」数ある野球帽の内の一人がネロに訊いた。
「ん?」
「ヴィ・ラー・サ」
「知らない」
「おれたちはそいつを探してんのさ、でも情報が少なくてね」
「見つけたらどうなるの?」
「宝探しだよ。おれは宝探しが好きなんだ。言ってしまえば、見つけられなくても、それはそれでいい。こんな時代に、探求できるものがあるってだけで、幸せだろ」
「おれは捕まえて研究する、バラバラにして仕組みを理解するまでが、おれにとっての探求だからな。それに、捕まえることができれば、もちろん新種だから、きっと大きな話題になるだろうな。もしかしたら全く新しい生き物かもしれない。つまりこれまでの学問を打ち壊すような」
「おれたちの名前は、確実に歴史に残る」
 野球帽たちは、たったいま神秘に遭遇したとでもいうような恍惚の表情を浮かべた。
「見つけられないから、幻なのに、見つけちゃったらもう幻じゃないよね」ネロが訊くと、野球帽たちは、もううんざりだとでも言うようにため息をついた。
「つまり、きみが言おうとしているのはこういう事だね。ヴィラーサは、幻だから価値がある。しかし、捕まえたら幻ではなくなり、同時に価値もなくなってしまう、と。だが、我々は幻であることの価値を求めているわけじゃない。つまりこういうことだ、我々は楽しいから、それをやっている」
「ああ、彼が言っているのは、死を体験したことのない人間、つまり我々が、死を恐れることに対する皮肉だね?」
「それは面白い話だけど、本当の意味で死を恐れない人間がいるかな?死の感覚を記録できないのだから人間は、いつまでも死を恐れ続ける。そういう特徴なんだって、割り切って考えたらどうだろう。スカンクは屁を放つ、フンコロガシはくそを転がす、人間は死を恐れて、思考をこねくり回す、ヴィラーサを追い求め続ける。単にそれだけの事さ」
「まだ見つかってはいないし、誰も見たことは無いんだね?」
「おい、神秘的なものはそっとしておくべきだ、というようなセンチメンタルかい?」
「センチメンタルは人間の特権だよ。たくさんセンチメンタルしておくべきだな」
「牛だって、なかなか悲しそうな顔をしているときがあるぜ」
「そういえば、ヴィラーサには言語機能があるとかいう話を聴いたことがあるよ」
「それなら、人間並みの知性があるかもしれない」
「人間並み、なんて聞くとまるで人間が高級みたいに聞こえるな。傲慢だって批判されても知らないぞ」
「人間に表現されるために、大地は存在する」
「捕まえる直前に悲しい顔をされたら困るね。こっちが嫌な気分になってしまう」
「もしかして、ヴィラーサは空を飛ぶかい?」ネロは展望台でのことを思い出しながら訊いた。「翼がある?」
「まあ、飛ぶってことは、あるんだろうけどね、普通に考えれば。でも無いって言う人もいる。ヴィラーサは鳥なんかとは全く別の方法で空を飛ぶんだって」
「幻には噂が付きものなんだ。もっと言えば、噂が幻を作っているのかもしれない。逆説的だけどね。だって、噂は幻と違って紛れのない真実だから。噂の内容には真も偽もないけど、噂それ自体はたしかに、ぐにょぐにょアメーバのように形を変えながらたしかに存在するからね」
「面白そうだわ、私もそれを見てみたい」と、マリは反身をひるがえして野球帽たちの方を向いた。
「アホどもの妄想だよ。そんなのいるわけない」と店主が煙草に火をつけながら、口の端をゆがめて言った。けれども、マリが煙草の煙を露骨に嫌がったので、店主は追いやられるように窓際に去った。「どうやら喫煙は罪らしい」
「君も参加するかい?」と野球帽の一人が色めき立って訊いたが、マリは「でもちょっとめんどくさいかもね」と、そっけなかった。それから、「なにか食べよう、お腹空いたね」とネロに向かって言った。二人は店に入ったものの、まだ何も注文していなかった。
 店主は煙草を窓からピッと指ではじき捨てると、メニューの一番目立つところに書かれた「おいしいもの」を、何も言わずに作りはじめた。二人とも文句を言わなかったところを見ると、おいしいものであれば、素材などは特に気にしない性格だったんだね。だけど店主が完成させた料理は、一目見ただけで単なるホタル牛のミートパイでしかないと分かった。マリは気だるげに、時間をかけて、ミートパイの表面をフォークでぐちゃぐちゃにしただけで、一口も食べなかった。店主はマリの手遊びによって痛めつけられてゆく料理の行く末を、悲しげに見守っていた。
行儀よく沈黙を保っていた野球帽の一人が、しかし、とうとうしびれを切らしてマリの勧誘を再開した。「君が入ってくれれば、すぐに見つかりそうな気がするよ」
マリは霧がかかった目で荒廃してゆくパイを見つめたまま、返事をする気配はなかった。ぐちゃぐちゃになった服を引き出しにいれてそのまま力づくでしめてしまうように、ネロは自分のパイをぐっとのどへ押し込んでから「ぼくたちは飛行訓練があるから、忙しいんだよ」と、答えたが、野球帽たちはネロの言葉には全く興味がないのだった。
部屋の温度がどんどん低下しつつあることを、部屋の中にいるすべての人々が感じ取っていた。マリは腕に現れだした鳥肌を、手のひらでさすっていた。脱いだ上着は、膝の上にほとんどぐちゃぐちゃに圧縮されて丸まっている。ネロは上着を着たまま、じっとしていた。
 店主はカウンター席の向いのキッチンを出て窓際に戻り、開け放たれたままの窓を閉めようとしたが、マリは「私たちもう帰るから」と、直前で店主を引き留めた。代金を払うと、店主は頬を緩めて、別人のような顔をつくった。野球帽たちは「考えといてくれよ、忘れないでくれよ」と未練がましく叫んだ。ネロがふりかえると、野球帽たちは「お前じゃねえ」と言った。マリはネロのうしろから野球帽たちに向かって、ぺカッとした笑顔を投げて残した。野球帽たちは残されたその笑顔に群がった。

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