見出し画像

nero13




告白
「まずお礼を言わせて、ありがとう。私に告白の機会を与えてくれて」
 暗闇に潜んでいる野球帽たちの拍手の音が響く。ネロは驚いた。だって、自分(とサル)の部屋が、突然ろくでもない講堂みたいになってしまったんだからね。だけどそれはなんら不思議な事じゃない。夜の暗闇というのは、想像力そのものなんだ。ネロは振り返って光の当たらない壁際を凝視した。目でとらえられるようなものは、そこには1㎤ほども認められなかった。また、直視することの恐怖―あまりに大きく刺激的な好奇心―が懐中電灯の光を向けることを妨げた。
「私の告白はあの忌々しい生き物についてのことなの。あの生き物について語るという事は、私自身について語ることと同じなの。私の人生は、あの生き物の影のようなものよ。いつだって踏みにじられて、のっぺりと起伏がなくて退屈で屈辱的で…。」
 ネロはサルの話を聴いているうちに、今喋っているのが本当にサルなのかどうか疑わしく思えてきた。むしろ、これがサルだというのなら、今までのネロが知っていたサルの姿は。全くの偽りだったと言えた。
「あの生き物がもしこの地上に存在しなければ、私の人生はよっぽど違ったものになっていたはずなの。それは分かり切ったことだわ。私の父は、あの生き物を、生涯をかけて追いかけ続けてたわ。彼にとって唯一の趣味だったの。私は父と会話した思い出がほとんどないわ。例えば褒められたり、抱きしめられたり、なんなら殴られたりしたことも無い」
 ネロの正面は壁とも暗闇ともつかない。そこが1m四方に照らし出され、サルの幼年期とみられるホームビデオの上映が始まった。そこに映し出される可愛らしい子どもは、見るからに一般的で、あらゆる可能性を内包していた。とはいえ、子どもというのはみんな、一般的な魅力に満ちているものだよね。
「私は知っているの。あの生き物が私の人生に介入してこなければ、私の人生はもっとまともで、もっと立派で、人に話しても恥ずかしくないものになっていたはずだし、この先もそう。あんたたちは、あの生き物に興味があるんでしょ。宝探しかなにかのつもりで、あれを追い回している。だけどあれは宝物なんかじゃないわ。もしもあれが本当の価値のあるものだったら、いくらか希望はあったかもしれない。宝探しの生活も刺激的だったかもしれない。だけど現実は違ってた。私も私の母も、歯止めなく貧しくなっていくだけだった。生活は苦しくなっていくのに、父は死ぬまで幸福そうで、世界に対してみじんも不満がないみたいだった。…父は一度、あれの爪を持って帰って来たわ」
 にわかにやじ馬たちが騒がしくなった。
「でもそれは一銭にもならなかった。それどころか、父はお金を払ってそれを買ったのよ。本物かどうかも疑わしい。きっと、ありふれた猛禽類の爪を、あれの爪だと思い込まされたんだわ。だって、誰も見たことがない生き物の爪が、その辺で買えるわけがないじゃない。ちょっと考えればわかることよ」
「ぜひ一度見てみたいもんだな」
 ヤジが飛ぶ。それが本心なのか嫌味なのか、判断するのは難しかった。野球帽とは、そういう人たちなのだ。まじめで立派な魂を持っているので、ユーモアや皮肉が思いつかない。
 ホームビデオの中の小さなサルが笑っている。カメラに向かって笑いかけている。それから画面の外に急に走り出し、カメラを向けると可愛らしい三輪車にまたがっている。そして、楽し気に漕ぎ出してゆく…。
 野球帽たちは立ち上がると、列を作りながら続々と窓から出ていった。「おれたちはヴィラーサの話を聴きに来たんだ。お前の話じゃない」「それもだいぶ脚色されてる」「物語の主役気取りだ」「わざわざ作り話を聞くぐらいなら、もっと実用的なことに時間を使うさ」
 静かになるまで少し時間がかかった。やがてネロとサルだけが残った。二人は暗闇の中で向かい合っていたわけではなかった。ネロは胡坐をかいて中空のホームビデオを見ていたし、サルは布団にもぐりこんでいた。
しかしサルは、告白をやめなかった。ネロは黙ってそれを聞き続けていた。
「私の父も私の母もとっくの昔に死んだわ。それも、たいして意味のない死に方で。生きようと思えば、いろんな方法があったはずなのに。
 それで、この訓練施設に預けられたわ。私は、両親と同様に何の意味もない人間だった。だから、私の周辺は、私に意味を与えようとしたの。そのための飛行訓練よ。空が飛べるようになれば、とりあえずのところ食べ物に困ることはなくなるし、それに私の周辺は私を気にかける必要がなくなるでしょ?」
 ホームビデオが終わった。そしてさっきまでの子どもの声や、風のせせらぎや、虫の鳴き声が、すべて偽りだったことが、不意に訪れたこの無機質な無音によって明らかになった。
「きみがここへ来るずっと前には、まだ先生がいたのよ。どんな人だったと思う?
先生は飛行訓練の合間に、ずっとヴィラーサについて研究してた。まるで私のくだらないお父さんみたいに。
研究と言っても、先生はもともと飛行のほかに能のない人だったから、まあ、つまるところ妄想よ。仮説を立てたり、実験によって実証したりはしないの。客観的な事実に基づく成果は、なんにもないの。だからヴィラーサについて論理的に喋ることが、一度としてできなかった。よく言えば想像力があったのね。だけど、先生のヴィラーサについての言説は、いつだって使い古されてボロボロにすり切れた、詩的―詩的だなんて笑っちゃうわよね―言語にまみれていて、読むに堪えなかった。
 先生は私が冗談半分に質問すると、とてもうれしそうに答えてくれたわ。ヴィラーサがいかに珍しく、貴重であるか、それからどれだけ崇高で、美麗で、厳然としたものであるかをね。
私は先生とたくさん話したわ。先生はヴィラサーに夢中。だけど私はそれが、邪悪で、怪異で、退廃したものであることを知っていた。もちろんそのことは先生には教えなかった。
先生は何度も、ヴィラーサは実在するって言ってたわ。その根拠だと言って、一枚の写真を見せてくれた。そこには大きな影が映っていたわ。小学生にもできるような合成写真よ。一目で分かったわ。先生に訊いたの、これは先生がご自身で撮影されたんですか?って。先生はちょっと考えてから、そうだよ、って言ったわ。馬鹿みたいな話よね。
 私、何度もしつこく、まじめぶってヴィラーサについて質問したの。私は先生にとって、ヴィラーサ研究のはけ口になった。きっと誰かに話したくてしょうがなかったのね。さっきの写真もそうだけど、自分の研究室にあるヴィラーサグッズをたくさん見せてくれたわ。ヴィラーサの羽や爪―私の父が買ってきた爪とは全然違うものだったわ―、外国語で書かれた文献、果てには完全に研究者の想像によって作られた指人形まであった。これは今、野球帽たちが管理してるわ。先生の部屋に入った訓練生は、みんな野球帽になって出てくるってね。
「先生はね、飛行訓練の先生としては、非の打ちどころがなかった。筋肉がたくさんあって、服の上からでも岩みたいにごつごつしたその形がわかったわ。私は好奇心から偶然を装って、先生の体に触れたことがある。先生は自分の体に触れた私の手をちらと見て、またすぐ視線を逸らしたわ。きっと、自分でも自慢だったのね。私もすぐに手を離したわ。
 先生の飛んでいるところをきみに見せてあげたかった。風なんかなくても、自由自在に飛び回れるの。飛行姿勢にぶれがないからだわ。もともと才能があったんだけど、それに加えて努力もしてきたのよ。筋肉は努力しなきゃ手に入らないものね。
両手を前にそろえて加速するときの『ヤア!』っていう掛け声には、指導者としての気品と重みがあったし、スピードに乗って両手を広げ、大きく旋回する姿は鷹に似ていたわ。ほんとうにすごかったのよ。私は飛行音痴でうまく飛べなかったから、いつも地上で先生の飛ぶ姿を見上げていたの。地上をすべってゆく大きな影を見てすぐに顔をあげると、空中のその影の持ち主は、他の訓練生から瞬時に見分けることができた。一人だけ全然違ってた。
 先生の口癖を聞けば、きみも先生がどんな人だったか分かるかもしれない。
―過去にも未来にも生きれる場所はない。そして、生きれる現在を死に続ける。
 先生は哲学を知っていたのかもしれない。じゃなかったら、こんなに意味のよく分からないことは言えないわ。哲学の言葉なのよ」
ネロは言葉の意味を考えようとしたが、しっかり覚えなかったので、すぐにその言葉自体を忘れてしまった。
「普通の人間には分からないのかもね。先生同士なら通じるのかもしれない。でも、私は先生じゃないし、きみも先生じゃない」
 深いため息。
「あの日、先生は私の知らない女性と一緒にいたの。楽しそうに話をしていたわ。私は少し離れた場所にいたから会話の内容は聞き取れなかったけど、個人的な会話をしているんだってことが、雰囲気で分かったわ。ヴィラーサの話なんかしていなかったと思う。だって、ヴィラーサについて話す時の先生は、いつももっと真剣な顔で、まくしたてるのがきまりだったから。その時の先生は、会話の間を楽しんでいるみたいだった。
先生はヴィラーサのほかにはなんにも興味がないと思っていたから驚いたわ。もしかすると私は、そう思い込むことで、自分自身を慰めていたのかもしれない。私は良く知りもしない先生を、都合よく理想の先生の型にはめ込んできたのよ、無意識のうちにね。でも、そんなのぜんぶ、まるっきりくだらないことだった。先生はただの、どこにでもいるような人だった。
こうして話していると分かってくる自分の気持ちも、その当時はうまく整理がついていなかった。だから、私は先生に対する感情の動きを、体調不良の一つの状態として考えてたくらいなの。
 その日の夜、私は先生の研究室に行ったわ。通路は暗くて、鉄の匂いがしたのを覚えてる。ノックもせずにドアを開けると、先生は机からさっと顔をあげたわ。すごく驚いてた。でも、ドアを開けたのが私だと分かると、急に馴れ馴れしい、変な、苛立ったような顔をしたのよ。べちょっとした、なれ合いの表情。気持ちの悪い、何でもわかり合えると信じて疑わないというような、そういう事を見越した表情。期待してるみたいな。
それに加えて、体の動きがどこか浮ついていた。自信に満ちた、体を大きく使うジェスチャー。きっと、女の人と喋ったからだわ。急に自信をつけちゃって、人生そんなに悪いもんじゃないな、とかなんとか感じ入っちゃったのかもしれない。人生は一度きり、みたいなスローガンを思い出して、はっとしちゃったのかもしれない。
だから私、先生に言ったのよ、さっきの女の人は誰ですか、朝、楽しそうに喋っていた人は誰ですか、って。先生は、きみには関係ないだろ、って言ったわ。少し笑いながら、嬉しそうに。口の端が歪んでいたのを、私ははっきり見たわ。そして、続けてね、こう言ったわ。『大人の関係だよ』
私、笑っちゃった。お腹を抱えて、何度も両手を打ち鳴らしたわ、猿みたいに大げさに。先生は戸惑いながら、だけど自分が意図しないなにかしらによって私を喜ばせたのだと思い込んで、むしろ満足げだったわ。もしかしたら、自分にユーモアがあると勘違いして、見当違いの自信を強めたかもしれない。私は一通り笑っちゃうと、何も言わずにそのまま部屋に戻ったわ。喋ることが馬鹿らしかったし、むなしかった」
 ネロは、「きみは先生の事をなんだと思っていたの?」とサルに訊いたが、あとのサルの言葉は、その返事にはなっていなかった。
サルは、「どうして先生がいなくなってしまったか、知ってる?」と言った。
「先生がいなくなってしまったきっかけを、きみは知っている?先生はね、ヴィラーサになってしまったのよ」
 ネロはヴィラーサという言葉に強く反応し、言葉の内容に動揺した。
「聞いて、私はね、先生がホタル牛をそのまま食べているところを見たのよ。ホタル牛の返り血を全身に浴びて、真っ赤な身体で立っていたわ。それから、とてもぎこちない飛び方で、向かいの山に向かって飛んで行ってしまったの。ぐちゃぐちゃになった死がいを残して。私はあわてて『さようなら』って叫んだわ。でも、言葉は届かなかった。もしかすると、言葉が通じなくなっていたのかもしれない」
「…どんな風に飛んでったの?どんな飛び方?」
「そんなの忘れたわ、とにかく飛んでったのよ」
「それ、ほんとうにヴィラーサ?…どういうことだろう。ヴィラーサになるっていうのは。見間違いじゃなくて?」
「いいえ、あれは確かに、先生ではなくなっていた。ヴィラーサだった」
「どうしてきみには、それがヴィラーサだと分かったの?きみだってそのときはじめて見たのじゃないの?」
「それを言ったら、どうしてそれがヴィラーサじゃないと分かるのよ?ねえ、どうしてそれがまだ先生だと分かるの?ねえ、誰に分かるの?」
「同じことじゃないか。それがヴィラーサだと分かるなら、どれがヴィラーサでないか、ということもわかるはずでしょ?どちらにせよ、ヴィラーサを見た人はまだいないんだ」
「そうよ、だから私は見たのよ、そしてそれがヴィラーサなのよ」
「君の言うように先生は全く別のものになっていたのかもしれない。だけどヴィラーサなんかではなく、ヴァラーサとか、ヴィリ―サでもいいわけだ。もしかしてきみは、ヴィラ―ソを見たのじゃない?」
「そうかもね、でもそれがなに?ヴィラ―ソだったから何?先生が先生ではなくなってしまったことは事実でしょ」
「じゃあ…じゃあ、君はそれがヴィラーサではなかったと認めるんだね?」
 ネロはそう言ったが、返事はなかった。ネロはサルのいるはずの方を向いて、もう一度尋ねた。「サル?」
窓の外ではホタル牛が、その米粒の様な発光が、ほんとうの距離を忘れて、部屋の中に入り込もうとしていた。脈打つように光は、膨らんだり縮まったりしていた。ネロは一瞬その光景を目にとめて不安になり、サルを探すために、そのまま部屋の照明の紐を引いて、灯りをつけた、、、、、、
 
 
 
 
 
 
「明かりをつけるな!」
 
 
 
 
 
 
暗転。強烈な怒声にネロはたじろぐ。心臓が急速に脈打ち、羞恥心に体が熱くなってくる。ネロは縮こまって、サルの名前を呼ぶ。謝ろうとしたんだ。だけどもう、返事どころか、サルの気配すらない。ネロは心の中で謝りながら、おそるおそる懐中電灯を点けた。光線で慎重に部屋の隅から隅を照らして探したが、サルはどこにもいなかった。ネロは最後に天井を照らした。むき出しの目玉は、暗く沈み込む動物の非情な目玉に変わっていた。
「怒ったのなら謝るよ」「やめにしよう」「出てきてよ、仲直りしよう」「ぼくが悪かった」
 返事はない。
 ネロは懐中電灯を強く握った。窓の外ではホタル牛が盛んに明滅を繰り返している。その光のにぎわいの方へ、ネロは懐中電灯を向けた。しかし懐中電灯の光線は空中で拡散し、どこかその光を遠くまで届けて、ものを暴き出すほどの性能はなかった。
 サルは音を立てずに部屋を出ていってしまったのかもしれなかった。この状況では、もはやそれしか考えられなかった。ネロは、窓から離れ、部屋の外に出た。部屋の外の廊下は真っ暗だった。ネロは懐中電灯で足元を照らしながら歩いた。まるく限定された視界には板張りの床が連続していた。だが、次第に板張りの床は、石畳に変化した。石板の隙間から生える雑草が揺れている。風が吹き始めた。足元から、正面へ懐中電灯を向け直すと、廊下がはてもなく続くばかりで、下へ降りるための階段が見当たらない。壁を照らすと、苔むした石壁が現れ、その表面は水滴で濡れているのだった。
混乱したネロは、懐中電灯を一度消した。そしてもう一度明かりをつけた。だけど目に見えるものに変化はなかった。
 引き返すにしては、すでに歩きすぎてしまっていた。ネロは足元を照らしながら黙々と歩いた。壁を照らしていない間は、ネロの両側から朝のような冷たく澄んだ風が吹き抜けた。壁を照らすと、照らされていない方から、風が鋭く吹きつけた。
何もなかった進行方向の先に、チカチカと点滅する、痙攣したような明かりが現れた。それは光というよりは、銀ナイフの反射に似ていた。ネロは懐中電灯をつけてその光の正体を暴こうとしたが、距離が遠すぎて叶わなかった。
ポーン。時報だった。
――ただいまの時刻は午前5時です。皆さま、今日も良い一日をお過ごしください。
それを境に、やがて廊下は、懐中電灯で照らすことを必要としなくなっていった。暗闇はすでに完全ではなかった。ネロはいつの間にか開かれた外の空間へと移動させられていて、見渡す限りどこにも壁はなかった。地平線の下にさりげなく隠れたままの太陽が、色が落ちた世界を演出していた。頼りないすがたかたちをした世界だった。後ろを振り返っても、ネロの部屋やその建物は見えなかった。
じっと見ていると眼球に穴が開いたような錯覚をもたらす鋭い光によって、導かれるように、ネロは進んだ。光はネロを誘うように、点滅のパターンを変えていた。ネロが光の方へ歩き出すと、光の明滅はまるで喜んでいるかのように、ぷっくりと膨らみ、きゅっとしぼんだ。
もはや懐中電灯の灯りは、すでに見えているものを不気味に強調するだけだった。ネロは灯りを消した。そして全てが均質の風景になった。朝の草むらの、濃い、むっとする青くささが付きまとってくる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?